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榛原の和紙

フレディが日本へ来た時、日本橋の和紙のお店へ行き、和紙を買って帰って自宅の壁に貼ったという。
日本橋には和紙のお店がいくつかありますが、老舗として最も有名なのは「榛原」(はいばら)です。
これは江戸っ子ならば知らない人はいない。
京都の「鳩居堂」と並ぶ名店です。
私も江戸っ子の端くれですし、友人が歌舞伎座で下座音楽をやっていて、榛原の文具をくれたことがあるので、私も榛原の便箋や小物を使っています。
榛原の商品はオンラインで購入することもできます。
https://haibara-shop.jp

榛原の和紙
榛原の和紙1

榛原の和紙2

榛原の和紙3

フレディは一体どんな和紙を壁に貼っていたのでしょうね?

「如来になったフレディ」

武田仁という仏画家がいます。
どのような仏画なのか見てみました。
仏画1

このように細い線でシンプルに描く方なので、いわゆる仏画のイメージとは違いますが、とてもきれいな線で、やわらかい印象です。
仏像たちがやさしく「大丈夫だよ」と言っているような気がします。
この仏画家が、フレディの絵を描いているのです!
武田氏はグラフィック・デザイナー出身なので、フレディと通じるものがあるのでは?

武田氏のサイトから引用します。
「何度目かの来日公演の際、日本のお土産にとプロモーターからプレゼントされた武田仁の画集と版画に感動したフレディは「タケダに会いたい」と切望した。1986年、ジャパンツアーで来日したフレディは武田との対面を果たし、その席で「いつか自分のポートレートを描いてくれないか」と依頼した。武田は快諾し、完成次第手渡す約束をする。

 しかし、ほどなくフレディは病没してしまった。受け取り手がいなくなった絵をどうするべきか、クイーンのマネージャー、ジム・ビーチ氏と相談した結果、フレディの母へ贈ることとなった。作品はかなりの大きさが有った為、破損しないように輸送するには相応の費用がかかった。だが、レコード会社を通じて募金を呼びかけたところ、またたく間に費用が集まり、作品は無事、フレディの母のもとへと届けられた。贈った絵(如来になったフレディ)はドミニオン・シアターのフレディ・マーキュリー展示室とお母さんの自宅に飾られている。」

如来になったフレディ」は、この絵ではないかと思います。
如来になったフレディ

「如来になったフレディ」の絵では、如来と共にフレディが描かれています。
如来には薬師如来、阿弥陀如来、大日如来などがありますが、この絵は阿弥陀如来であると思われます。
阿弥陀如来と大日如来は、ゾロアスター教の最高神アフラ・マズダーを起源とするという説があります。
阿弥陀仏の救済的性格は、ゾロアスター教の影響と言われます。
大乗仏教そのものがゾロアスター教の影響を受けており、阿弥陀如来に関する経典は北西インドで成立したものです。
ゾロアスター教研究の岡田明憲氏は、「浄土」という概念もゾロアスター教から来ており、そこにゾロアスター教の終末における世界の浄化の影響があるとしています。
そんなことを知ったら、フレディもさぞ驚いたことでしょうね。
つまり上の絵は、フレディとアフラ・マズダーが一緒にいる絵とも言えるのですから。

これは阿修羅か、千手観音か?
阿修羅か千手観音か

武田仁の経歴では、1981年に銀座の画廊「月光荘」で個展を開き、オーナーの中村曜子は恩人であるとしています。
中村曜子は、ピアニストの中村紘子の母親で、大変な経営手腕があり、政財界に広く人脈を持っていました。
しかし、1985年にレオナルド・ダ・ヴィンチの贋作を21億5000万円で売り込もうとした「月光荘事件」を起こし、国際的なスキャンダルとなりました。
その贋作をイタリアから無断で持ち出したことが、イタリアの文化財保護法に抵触するとして、ミラノ検察庁が捜査を行ない、1988年にミラノ検察庁に起訴されました。
1989年には、ゴルフ場会社の役員から預かったルノワールの『花束』を1億4500万円で売却し、その代金を横領した容疑で東京地検に書類送検されました。

中村曜子は1992年に亡くなりましたが、武田仁が墓参りに行ったところ、その墓は木柱一本だったそうです。

武田仁は、1981年、1983年、1985年にも月光荘で個展を開いています。
1985年は「月光荘事件」が起きた年ですから、何とも微妙です。
武田氏は月光荘の後、ベルギーのブリュッセルやニューヨークでも個展を開いており、欧米では知る人ぞ知るという仏画家になりました。
日本人が見ると不思議な絵ですが、外国人には人気があるようです。

フレディの絵をプリントしたTシャツもあります。
武田フレディ





ジョーファネリという献身的な生き方

フレディの周辺で気になる人物にジョー・ファネリがいる。
ジョー・ファネリはフレディが若い頃の恋人で、ガーデンロッジでジム・ハットン、ピーター・フリーストーンと共に、フレディが亡くなるまで共に暮らし、フレディの料理人をつとめた人物です。

もともとフレディにはメアリーという恋人がいましたが、デビッド・ミンスに惚れ込んで同棲し、メアリーとは別れることになりました。
You take my breath awayや、Love of my life、またGood Old Fashioned LoverBoyもデビッドに捧げた曲なので、フレディがどれだけ彼を愛していたかがわかります。
「ラブ・オブ・マイライフ」はメアリーのために書かれた曲と言われていますが、実はデビッド・ミンスなのでした。
デビッド・ミンスとは1975年から1978年、フレディ29才から32才の間の恋愛でした。

1978年、ジャズツアーでアメリカを訪れたフレディは、ジョー・ファネリを見初めて熱を上げました。
ファネリはイタリアからアメリカへの移民で、1951年生まれ(ジョン・ディーコンと同じ)。
1978年にフレディがイギリスへ呼び寄せ、2年ほど恋人として付き合いました。ファネリ27才、フレディ32才の時です。
ファネリは1970年代後半の日本公演にも同行していました。
彼はナイーブでやさしく、傷つきやすい性格だったと言われ、フレディが2人の関係を隠し続けることなどから、様々なプレッシャーに耐えられず、自らフレディとの関係を絶ちました。
その時フレディは、ファネリを失ったことを悲しみ、元彼のデビッド・ミンスに電話して泣いたそうです。
デビッドにしてみれば、はあ?なんで俺に?と思いますよね。
左からジョー・ファネリ、デビッド・ミンス、フレディだと思う。
左からジョー・ファネリ、デビッド・ミンス、フレディだと思う。間違っていたらごめん。
ファネリはご覧の通りキュートな青年。
同性愛者から引く手あまただったと思う。
同性愛者は道を歩くだけで、同類はすぐにわかるという。
ロジャーも美少年なので滅茶苦茶誘われたと思うが、フレディと違って、応じなかったんですね。

1981年から83年までは、ファネリはフレディとの連絡を絶っていましたが、フレディに未練が残り、1983年に友人としての関係を再開しました。
ファネリはフレディの料理人となり、フレディが亡くなるまでの11年間を共に過ごしました。
これはジム・ハットンよりもはるかに長い年月になります。

ファネリはいつもフレディの側にいて、少し下がったところからフレディの世話を焼いていました。
1986年にフレディがジム・ハットンと日本を訪れた時にも同行しています。
ファネリはメアリー同様、恋人としては別れた後も親友となり、フレディの数多くのラバーズが現れては消えるのを見守っていました。
フレディと同居をしていても、元カノのメアリーは毎日のようにやって来るし、新しい彼のジムを目の当たりにして、一体どのような心境だったのでしょうか。
フレディはいつも、元カノや元カレや、元々カレや、元元々カレたちを引き連れているのが好きで、彼らをみんな一部屋に入れてどうなるか楽しんだという悪趣味な面もあったのですが、なにしろファネリは繊細でセンシティブなのですから、どうしてそのような状況に耐えられたのでしょう?
料理人として給料を貰っていたからお金のため? それともフレディの魅力のため?
フレディはファネリを大切にして、誕生日に部屋いっぱいのバラの花を贈ったり、家具を作ってあげたりしていました。
ファネリもフレディが出かけると、どこに行ったかを必ず知っていました。
フレディの晩年、病気の発作が起こると、フレディの体を抑えて鎮めることができるのはファネリだけでした。

フレディは何事も過剰になる人で、常識を突破したい人だったので、一夫一婦制やステディな恋人関係をぶち壊したかったのでしょう。それはそれで理解できますが、ぶち壊される方の人はたまったものではありません。
フレディは自分のハーレムを作りたかったわけですが、彼の死後にはやはり相続を巡る確執を招いてしまいました。

長い間フレディに献身的に仕えてきたファネリですが、悲しいことにエイズに感染してしまいます。
1990年に、すでに進行した状態であると診断されました。
ファネリの病気を知って衝撃を受けたジム・ハットンは、自らも検査を受ける決心をします。
その結果、ジムも感染していたのですから、ガーデンロッジは「エイズの館」となってしまいました。
同居していたピーター・フリーストーンも同性愛者でしたが、HIV陰性だったので、フレディの周囲で感染しなかったのは彼だけだと言われています。

ファネリは自分も同じ病であるというのに、フレディが次第に衰弱していく日々に付き添って介護をしていました。
それはいずれは自分もこうなるということを見せつけられる毎日だったわけですから、どんなに辛く恐ろしかったことでしょう。
しかも自分の病の原因は、目の前のフレディであるというのに!
これは本当に試練の毎日だったことは想像に難くありません。
とくに最後の頃は、死にゆく人だけではなく、介護者も精神的に消耗しますので並大抵のことではありません。

フレディの死期が近づくと、ファネリは自分の将来が心配になり、フレディに頼んで小さな家を買ってもらいました。
案の定、フレディが亡くなると、メアリーはファネリやジム、ピーターを追い出してしまいます。
メアリーはジムとファネリを嫌っていたので、フレディが亡くなって直後のクリスマスパーティーにファネリを呼びませんでした。

1991年の11月にフレディが亡くなり、その後、1992年の2月末にジムはファネリと再会しました。
ファネリは激やせしており、体調もよくなさそうでしたが、まだ将来に対する希望を持ち、小さなホテルを買ってビジネスをしたいことや、日本にも行きたいので一緒に行かないかと誘っていたそうです。
ところがそれから10日ほど後に、ファネリは突然亡くなってしまいます。
フレディの病はゆっくりとした経過をたどったのに、ファネリはあまりに突然の呆気なさでした。

ジョー・ファネリは27才から40才までの若い時代をフレディに捧げ、ついには命までも奪われることになってしまいました。
フレディは意図しなかったかもしれませんが、周囲の人に対してずいぶんカルマを作ってしまったように思います。
フレディは自分でお茶を入れるのもいやで、世話をしてくれる人が欲しかったのですが、そのために人の人生を奪ってしまったとは!
ジョーファネリ
ファネリは11年間、フレディの影にあり、フレディの多くのラバーズを見届け、自らも病を引き受け、フレディの最後を看取りました。
このような献身的な生き方をした人がいるということも、現代の伝説となっと私たちの心を打つのです。

ジョー・ファネリよ安らかに!
天国でフレディと会って、時々日本へ遊びに来ているでしょうか?








アイルランドに平和を!

フレディの最後の恋人だったジム・ハットンは、アイルランドの出身です。
ライブエイドの立役者だったボブ・ゲルドフもアイルランド人で、フレディのマネージャーで恋人だったポール・プレンターは北アイルランド出身です。
アイルランドは長らくイギリスの支配下にあり、イギリスから過酷な扱いを受けてきたので、今でもアイルランド人はイギリスを良く思っていないようです。
今でもアイルランドの人に対して、イギリスと比較するようなことや、北アイルランド問題を話題にすることは避けた方が良いそうです。
ジム・ハットンはロンドンに来て、フレディと同棲するようになりましたが、イギリスに対しては複雑な思いがあったのではないでしょうか。
そんなアイルランドについて、ちょっとおさらいしてみます。
ジムとフレディ

⭐︎アイルランドといえばケルト文化!
紀元前265年ごろより、ヨーロッパからケルト人の渡来が始まりました。
ケルト人は高い文化を持っていましたが、集権的な政治形態ではなく、富の蓄財もしなかったため、次第にキリスト教に追いやられてしまいます。
しかしケルトの伝統はヨーロッパで長く息づき、ブリティッシュロックにも影響を与えました。
キングクリムゾンの「リザード」のジャケットにはケルト文様の凝ったデザインが一面に描かれており、「ディシプリン」のジャケットには、ケルトの結び目細工をもとにしたデザインが使われています。
ケルト系のミュージシャンでは、エンヤが有名です。
現在のアイルランドには「アイリッシュ・パンク」や「ケルトロック」もあるそうです。

映画「タイタニック」でも見られたアイリッシュダンスは、ケルト音楽と共に踊ります。(リバーダンスともいう)
リバーダンスは上半身を動かさずに下半身でリズムを刻むダンスですが、これは16世紀にイギリスからゲール語を禁止され、踊ることも禁止されたため、外から窓を通して見られた時に、上半身が動かないように、下半身だけで踊るようになったため。アイルランドの言葉と踊りを禁止するとは、イギリスもひどいことをするものですね。
アイリッシュダンスの伝統は、キリスト教以前からあったものです。
フレディの先祖も、ペルシャからインドへやってきた時、インドではゾロアスター教の布教とペルシャ語の使用を禁じられました。
二人とも同じような経験をした先祖を持っているので、共鳴するところがあったのか。

⭐︎アイルランドの歴史
8世紀末頃からノルマン人(ヴァイキング)の侵入が始まり、
1171年、アイルランドの豪族たちがイングランドのヘンリー2世の支配下に置かれます。
1541年、イングランドのヘンリー8世がアイルランド王を名乗り、本格的な支配が始まる。

1649年、クロムウェルがアイルランド占領のために侵攻し、大量の土地が没収され、多くの市民、老若男女が殺害されました。
一般市民の犠牲者は、病気や飢饉によるものを含めて20万人にのぼる。
生き残った政治犯は、1万2千人が西インド諸島を中心に奴隷として売られました。
クロムウェルの侵略は残忍極まりないものだったので、今でもアイルランドで最も嫌われているイギリス人になっています。
クロムウェルによりアイルランドは事実上の植民地となり、これ以後正式な移民が始まりました。

1801年、グレートブリテン王国とアイルランド王国が合併する。実質的にはイギリスによるアイルランド併合。

1840年代後半、ジャガイモの不作が数年続き、大飢饉が発生する。
この飢饉により、800万だった人口が2割も減り、生き残った人もアメリカへ移住するものが続出し、1911年には人口440万人にまで減少してしまい、現在に至るまでその人口は回復していません。
この時、イギリスは飢餓のアイルランドを助けるどころか、イギリスへの小麦の供出を強制し続けたので餓死者は100万人となり、アイルランド人のイギリスへの恨みは強く募ることとなった。
アイルランドではジャガイモが常食で、当時の小麦は高価なものであり、貧しい農民の口に入るようなものではなかった。

ジム・ハットンもジャガイモが好きなので、フレディがジムの誕生日に、10種類以上のジャガイモ料理を用意したという暖かいエピソードがあります。
フレディはイギリス植民地の支配層出身で、ジムはイギリスの支配を受けた国の出身。
お互いに生粋のイギリス人ではなかったので、ロンドンで生きるうえでは通じるものがあったのかもしれないが、世界はなんて複雑なのだろう。
やはり何かこの二人は偶然出会ったのではないような気がする。
ジムとフレディ2

1919年-1921年、アイルランド独立戦争
1922年、アイルランド自由国が成立、イギリスの自治領となる。ただし北部アルスターの6州は、北アイルランドとしてイギリスに留まる。これがアイルランド内戦へと発展する。

歴史的にイギリス(イングランド)への植民地支配の恨みが強く、今でも一部の住民の間では反英感情が強いとされます。
アイルランドは、イギリスから受けた虐殺や抑圧の歴史を持っていますが、イギリスに対して謝罪や賠償を求めることはなく、他国で告げ口外交をすることもなく、かといってイギリスとの友好を打ち出すわけでもありません。
ただイギリスと対等の関係であることを望んでいます。

アイルランドは、2011年の東日本大震災の時、自国が経済危機にあったにも関わらず、日本赤十字社に対して100万ユーロを寄付してくれました。
アイルランドの人は素朴で暖かく、鷹揚な人柄のようです。「何とかなるさ」と思っている。
イギリスは残酷で、アイルランド人を沢山殺しました。イギリス好きの人にとっては残念な歴史ですね。

⭐︎IRAについて
IRAとは、アイルランド共和軍のことであり、アイルランド独立戦争(対英テロ闘争)を行なってきたアイルランドの武装組織です。
IRAの目的は、アイルランド自由国成立後は、北部6州と南部26州(共和国)とを統一すること、つまり北アイルランドをイギリスから分離させて全アイルランドを統一することにあります。
IRA設立の背景には、17世紀にオリバー・クロムウェルが行なったアイルランド侵攻において、プロテスタントによるカトリック弾圧から続いてきた「アイルランド人に対する抑圧」があります。

1970年から1990年代にかけての「北アイルランド闘争」時代には、北アイルランドだけではなくイギリス本土でも爆弾テロが行われました。この頃のテロの記憶は私たちにも生々しく、映画にもなっています。
1994年にIRAは停戦を宣言。
1998年にベルファスト合意が成立、アイルランドは国民投票で、北アイルランドの領有権主張を放棄しました。
2000年、IRAは武装解除を表明。
2005年、IRAが武装闘争の終結を宣言しました。

しかし、ベルファスト合意に反対して散発的な行動を起こしているグループもあり、
2020年のブレグジットによって、アイルランドと北アイルランドの国境管理が再開されれば、過激なグループの闘争が再燃するのではないかという懸念もあるという。
ブレグジットとは、2019年12月12日にイギリスで行なわれた総選挙により決定した、イギリスがEUから離脱することを指す。
EUからの離脱について、ブライアン・メイは「世界が融合ではなく、分断に向かうのは悲しいことだ」と述べています。


⭐︎アイルランドの文学について
まずケルト神話として残る神話・英雄伝説を扱う口承文学が栄えました。
その後のアイルランドの文学にはアイルランド語で書かれたものと、英語で書かれたアングロ・アイリッシュ文学があります。
イギリスの植民地時代、連合王国時代にはアイルランド出身の小説家によって、多くの優れた小説が英語で書かれました。
この中には、『ガリヴァー旅行記』のジョナサン・スウィフト、『ドリアン・グレイの肖像』、『サロメ』のオスカー・ワイルドなどがいます。
ジェイムズ・ジョイスは『ユリシーズ』などの著作で、20世紀の欧米文学に大きな影響を与えました。
アイルランド出身のノーベル文学賞の受賞者として、W・B・イェーツ(1923年)、ジョージ・バーナード・ショー(1925年)、サミュエル・ベケット(1969年)、詩人のシェイマス・ヒーニー(1995年)がいます。
アイルランドには多くの優れた文学者がおり、世界に影響を与えています。

ケルトからの伝統を受け継ぎ、奥深い文化を生み出してきたアイルランド。
最近ではアイリッシュハープを弾く人も増えています。
アイルランドに行ってみたいなあ。



クイーンは産業ロックの王様!

カウンターカルチャーの象徴だったロックは、若者たちの反抗の音楽でしたが、1970年代後半になると、音楽業界のメインストリームとして商業的に成功することが期待されるようになりました。
ちょうどクイーンが成功を収めたのが、この1970年代後半です。
レコード会社の意向や、大衆の好みに合わせて、わかりやすいポップなメロディーと、歌い上げるボーカル、洗練されたインストゥルメンタルのアレンジ、厚みのあるコーラスなどを持つバンドがもてはやされる時代です。

ロック評論の渋谷陽一は、1970年代後半、ラジオ番組でこのような音楽を「産業ロック」と呼んで批判しました。
槍玉に挙がったのは、ジャーニー、フォリナー、スティクス、REOスピードワゴン、カンサス、ボストン、TOTOたちで、いずれも聴きやすいポップなロックです。
「産業ロック」というのは日本だけで通用する言葉ですが、この頃アメリカでは「コーポレイト・ロック(企業のロック)」という言葉が使われていました。80年代になると、バンドはさらに巨大化し「ダイナソーロック(恐竜ロック)」と呼ばれるようになりました。

もともとアメリカのポピュラー音楽の売り方として、まず市場調査をして大衆の好みを分析し、それに合わせた音楽を制作して販売するという方法があります。
1970年代後半のロックにおいて、同じ手法が使われたということができます。
つまり「産業ロック」とは、「売るために作られた音楽」のことです。
それらには反逆性もなく、不良性も新奇性もなく、万人に受け入れられやすい音楽です。

渋谷陽一は、「ひとつひとつのアヴァンギャルドな試みが積み重なって音楽は進んでいく。そんな努力がない限り、音楽は動脈硬化するだけであり、産業ロックとはその動脈硬化なのである」「ロックのこれまでの試行錯誤の歴史を全て御破算にしてしまうような不安を感じる」とまで言っています。

渋谷陽一の後続の音楽評論家たちは、エイジア、チープ・トリック、ラヴァーボーイ、ハート、サバイバー、ナイト・レンジャー、キッス、エアロスミスらも産業ロックであるとしました。
さらに現在はレッド・ツェッペリン、クイーン、ロッド・スチュワート、ビリー・ジョエル、ヴァン・ヘイレンなども批判されるに至っています。

やはりクイーンは産業ロックであると私も思います。
しかも産業ロックの王様です!
デビュー初期の頃はそうではなく、彼らは純粋に音楽を追求するミュージシャンでした。
しかし3枚目の「シアーハートアタック」から風向きが変わってきて、より聴きやすい音楽へ変わっていきます。
そして「ボヘミアンラプソディ」のヒット以後、決定的に産業ロックの権化となっていくのです。
王様

産業ロックの定番は「スタジアムロック」です。
スタジアムロックとは、何万人という観客を動員する大会場での派手なライブを行なう商業主義的なロックのこと。
クイーンが得意としたステージです。
スタジアムロックで人気のあったミュージシャンと、産業ロックは重なっています。
気になるのはクイーンの産業ロック王者時代と、フレディのハードゲイ時代が重なっていること。
この巨大な群衆からのエネルギーを受け止めるためには、それ相当の思い切った社会からの逸脱や、実際に筋肉を鍛えることも必要だったのではないか?
フレディは病気がわかってからは、ツアーをやめて、乱痴気騒ぎもやめています。
スタジアムロック

産業ロックが悪いとは言えませんが、ロック本来のカウンターカルチャーとしての役割は終わり、安心安全なお茶の間ロックになってしまったと言えるでしょう。
私はクイーンが生粋のミュージシャンであった2枚目までと、フレディが発病後に自分の使命に目覚めた後期の作品が好きです。

フレディは商業主義のロックも楽しんでプレイしていましたが、それは当時の若者として、自分たちがどこまで成功を追い求められるのか挑戦したいという気持ちもあったでしょう。
しかし商業主義に乗れずに悲劇を迎えた人もいました。
ニルヴァーナのカート・コバーンは、1991年のデビューアルバムで成功を収めましたが、もともとアンダーグラウンド志向だったため、自らの成功を喜んで受け入れることができず、うつ病やドラッグ依存となり、ついに1994年、ショットガンで頭部を撃ち抜いて自殺してしまいました。
カートコバーン
享年27才。「27クラブ」だ! このカーディガンは最近オークションに出され、
約3600万円で落札された。
遺書には「フレディ・マーキュリーのようにはなれない」とあった。
彼の死には他殺説もある。

フレディはアーティストとしての自分と、売れ続ける「フレディ・マーキュリー」との間に葛藤はなかったのだろうか?
彼は一人の人間として、巨大な恐竜「フレディ・マーキュリー」を乗りこなすことに苦心していた。
「朝目覚めた時に、自分がフレディ・マーキュリーじゃなかったらなあと思うことがある」と言っています。
やはり彼は「フレディ・マーキュリー」という仮面を被るグレート・プリテンダーだったのでは?
グレートプリテンだー

産業ロックや商業音楽の影で、多くの人がアルコールや薬物の過剰摂取、精神異常、自殺などに追い込まれていきました。
フレディと付き合いのあったバーバラは、「フレディのドラッグや乱痴気騒ぎは自殺行為だった」と言っています。
フレディの病気の原因は、単なる自己責任ではないところがあると、私は言いたい。
ミュージシャンはもともと繊細で過敏な性質なところへ、連日徹夜のレコーディングと、ツアーという過重な労働を強いられ、その見返りに多額のカネを与えられ、ドラッグとセックスで操られる。それに加えて常にマスコミの批判に晒され、バッシングされ、彼らは次第に壊れていく。
誰がフレディを殺したのか?
音楽産業の犠牲になったのか、
そもそもロックの反抗精神を抜き取るように音楽業界への働きかけがあったのか?
エイズが人工的に作られた生物兵器だという説の真偽は? (LGBTのカテゴリー参照)
・・・世界の闇は深い。


プロフィール

楽園のペリ

Author:楽園のペリ
1975年、初来日の武道館でクイーンを体験、フレディのファンになる。長らくクイーンのことは忘れていたが、映画を見て思い出し、フレディについて研究するうち、ついにロンドンのガーデンロッジや、モントルーのクイーンスタジオまで行ってきました!

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