ロックミュージシャンにゃ学歴なんか関係ねえよ!
確かにその通りで、それを言っちゃあおしまいなんですが、イギリスの教育制度と若者のロック文化は関係があるので、ちょっとそのことについて。
1960年代のイギリスでは、国民の生活水準が高くなって中流階層が増え、子供のに高等教育を授けることが可能になってきました。
1963年の「ロビンズ報告」によって、高等教育機関の拡大が行われ、新しい大学が7校発足し、1968年には大学が44校なになっていました。
イギリスは日本とは異なり、1967年の18才人口のうち、大学へ進んだ者はわずか6.3パーセントでした。
イギリスの大学とは、まさに選び抜かれたエリートの集まる場所だったのです!
一般に「ロック」といえば、貧しい労働者階級の若者が憧れるアメリカンドリームのようなイメージだったのですが、クイーンのメンバーたちは大卒というエリートでありながら、大衆文化のロックを選んだのです。
クイーンというバンドの特徴は、メンバー全員が高学歴だというところにもあり、私も当初はそこに興味を持った覚えがあります。
イギリスでは、大学とカレッジ、高等教育機関上級コースの学生たちには奨学金があり、全体の90パーセントの学生が奨学金を受けています。その奨学金は後で返済する必要がありません。ここが日本との大きな違いですね。日本も見習いたいところ。
奨学金の額についてですが、1971年頃は1ポンド860円!で、自宅ではない学生は1978年〜1989年で、年間1315ポンド貰うことができました。これは年間113万円で、なんと失業手当の5倍もの高さだったのです。その奨学金目当てに大学を目指す若者も増えたそうです。
(現在は1ポンド130円ですから、なんと当時は6.6倍!! とてもイギリス旅行なんてムリですね。)
ロジャーは歯科医を目指していましたが、1年ほどで退学し、ロックバンドの活動をしながら古着屋を営んでいましたが、それでは生活が苦しかったため、奨学金目当てで別のカレッジへ入学しました。
一般に欧米の若者は実家を出る年齢が若く、ロンドンでは16才で親元から独立するのが当たり前だそうですが、これは奨学金という背景もあって可能になることでもあるわけですね。
クイーンのメンバーも学生になり、奨学金を貰いながら、ブライアンは家庭教師のアルバイトもしていましたが、比較的自由になる時間を持つことができたために、音楽活動に邁進することができたのです。
また大学では、コンサートを行なったり、グループのメンバーを募集したり、仲間同士で情報交換をしたりするための、恰好の場所を提供していたのです。
クイーンが初めてコンサーを行なったインペリアル・カレッジの教室

インペリアル・カレッジの外壁には「1970年7月18日 ここで初めてクイーンが公的演奏をした」という銘板があります。

クイーンのメンバーは全員が学位を持つインテリバンドなのですが、これはイギリスの高等教育制度のおかげで生み出された若者文化の賜物と言えるのです。
それに伴い、クイーンのファンたちも高等教育を目指し、大学という恵まれた環境で楽しい時間を過ごしたいと思うようになっていきました。当時はこのような「クイーン効果」もあったのですね。
フレディは美術が得意だったので、アートスクールへの進学を志望しましたが、入学にはアートの1科目でAレベルが必要なため、予備校のようなところでAレベルを獲得、1966年にイーリング・カレッジ・オブ・アートのグラフィックデザインコースに入学しました。
イーリング・アート時代のフレディ。1968年

アートスクールとは、高等教育の中で継続教育機関上級コースに属しており、大学と同じ価値を持っているが、大学よりは進学がしやすい条件になっていました。
アートスクール出身のロックミュージシャンは他にも少なくないのですが、ミュージシャンがアートスクールを好んだ理由には、アメリカの最先端のアートの情報が入ってくることが挙げられます。
とくに「サイケデリック」を視覚化したポップ・アートは、イギリスのミュージシャンに大きな影響を与えました。
イギリスのロックが世界中に影響を与えるようになった原動力は、ここに一因があったのです!
アートスクールの入学は難しくなく、入れば奨学金が貰え、そこでは海外の新しいムーブメントの情報が入る。
そしてアートが好きな学生ボヘミアンたちが集まる場所となり、学生たちは自由な時間を得て、ロックを芸術的な音楽ととらえ、自己表現の手段として創造するようになりました。
フレディがアートスクールで学んだことは美術だけではなく、当時の最先端の若者文化を取り入れて創造することでした。クイーンの中ではただ一人の芸術系ですが、クイーンの中でアーティストであるフレディが果たした役割は絶大だったと思われます。
クイーンは高等教育の恩恵と、アートスクールの経験を持っている、60年代・70年代の若者文化の象徴のようなバンドなのでした!

若者文化は時代とともに、様々な差異を作り出していきます。
クイーンの後にはパンクが現れますが、パンクなどから見るとクイーンは時代遅れの仰々しいバンドだったので、1984年にリヴァプールやロンドンで、スキンヘッズに襲われたことがありました。彼らの言い分は「毛皮やサテンで着飾ったり」「レザーやベルベット、アクセサリーまでつけてギンギラギンのファッショッン」をした奴らが許せないとのことです。
時代の推移の中で、クイーンにも多大な苦労があり、それを乗り越えてきた長命バンドの存在は威風堂々ですね。
確かにその通りで、それを言っちゃあおしまいなんですが、イギリスの教育制度と若者のロック文化は関係があるので、ちょっとそのことについて。
1960年代のイギリスでは、国民の生活水準が高くなって中流階層が増え、子供のに高等教育を授けることが可能になってきました。
1963年の「ロビンズ報告」によって、高等教育機関の拡大が行われ、新しい大学が7校発足し、1968年には大学が44校なになっていました。
イギリスは日本とは異なり、1967年の18才人口のうち、大学へ進んだ者はわずか6.3パーセントでした。
イギリスの大学とは、まさに選び抜かれたエリートの集まる場所だったのです!
一般に「ロック」といえば、貧しい労働者階級の若者が憧れるアメリカンドリームのようなイメージだったのですが、クイーンのメンバーたちは大卒というエリートでありながら、大衆文化のロックを選んだのです。
クイーンというバンドの特徴は、メンバー全員が高学歴だというところにもあり、私も当初はそこに興味を持った覚えがあります。
イギリスでは、大学とカレッジ、高等教育機関上級コースの学生たちには奨学金があり、全体の90パーセントの学生が奨学金を受けています。その奨学金は後で返済する必要がありません。ここが日本との大きな違いですね。日本も見習いたいところ。
奨学金の額についてですが、1971年頃は1ポンド860円!で、自宅ではない学生は1978年〜1989年で、年間1315ポンド貰うことができました。これは年間113万円で、なんと失業手当の5倍もの高さだったのです。その奨学金目当てに大学を目指す若者も増えたそうです。
(現在は1ポンド130円ですから、なんと当時は6.6倍!! とてもイギリス旅行なんてムリですね。)
ロジャーは歯科医を目指していましたが、1年ほどで退学し、ロックバンドの活動をしながら古着屋を営んでいましたが、それでは生活が苦しかったため、奨学金目当てで別のカレッジへ入学しました。
一般に欧米の若者は実家を出る年齢が若く、ロンドンでは16才で親元から独立するのが当たり前だそうですが、これは奨学金という背景もあって可能になることでもあるわけですね。
クイーンのメンバーも学生になり、奨学金を貰いながら、ブライアンは家庭教師のアルバイトもしていましたが、比較的自由になる時間を持つことができたために、音楽活動に邁進することができたのです。
また大学では、コンサートを行なったり、グループのメンバーを募集したり、仲間同士で情報交換をしたりするための、恰好の場所を提供していたのです。
クイーンが初めてコンサーを行なったインペリアル・カレッジの教室

インペリアル・カレッジの外壁には「1970年7月18日 ここで初めてクイーンが公的演奏をした」という銘板があります。

クイーンのメンバーは全員が学位を持つインテリバンドなのですが、これはイギリスの高等教育制度のおかげで生み出された若者文化の賜物と言えるのです。
それに伴い、クイーンのファンたちも高等教育を目指し、大学という恵まれた環境で楽しい時間を過ごしたいと思うようになっていきました。当時はこのような「クイーン効果」もあったのですね。
フレディは美術が得意だったので、アートスクールへの進学を志望しましたが、入学にはアートの1科目でAレベルが必要なため、予備校のようなところでAレベルを獲得、1966年にイーリング・カレッジ・オブ・アートのグラフィックデザインコースに入学しました。
イーリング・アート時代のフレディ。1968年

アートスクールとは、高等教育の中で継続教育機関上級コースに属しており、大学と同じ価値を持っているが、大学よりは進学がしやすい条件になっていました。
アートスクール出身のロックミュージシャンは他にも少なくないのですが、ミュージシャンがアートスクールを好んだ理由には、アメリカの最先端のアートの情報が入ってくることが挙げられます。
とくに「サイケデリック」を視覚化したポップ・アートは、イギリスのミュージシャンに大きな影響を与えました。
イギリスのロックが世界中に影響を与えるようになった原動力は、ここに一因があったのです!
アートスクールの入学は難しくなく、入れば奨学金が貰え、そこでは海外の新しいムーブメントの情報が入る。
そしてアートが好きな学生ボヘミアンたちが集まる場所となり、学生たちは自由な時間を得て、ロックを芸術的な音楽ととらえ、自己表現の手段として創造するようになりました。
フレディがアートスクールで学んだことは美術だけではなく、当時の最先端の若者文化を取り入れて創造することでした。クイーンの中ではただ一人の芸術系ですが、クイーンの中でアーティストであるフレディが果たした役割は絶大だったと思われます。
クイーンは高等教育の恩恵と、アートスクールの経験を持っている、60年代・70年代の若者文化の象徴のようなバンドなのでした!

若者文化は時代とともに、様々な差異を作り出していきます。
クイーンの後にはパンクが現れますが、パンクなどから見るとクイーンは時代遅れの仰々しいバンドだったので、1984年にリヴァプールやロンドンで、スキンヘッズに襲われたことがありました。彼らの言い分は「毛皮やサテンで着飾ったり」「レザーやベルベット、アクセサリーまでつけてギンギラギンのファッショッン」をした奴らが許せないとのことです。
時代の推移の中で、クイーンにも多大な苦労があり、それを乗り越えてきた長命バンドの存在は威風堂々ですね。
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