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ザンジバルの「からゆきさん」とフレディ

フレディが生まれたアフリカのザンジバルには、なんと日本人の「からゆきさん」がいたという。
「からゆきさん」とは「唐行きさん」のことで、明治から昭和にかけて、海外へ働きに出た日本人娼婦のことを指します。
このことだけでも驚きですが、なんと調べてみると、からゆきさんが住んでいた家と、フレディの家は100メートルぐらいしか離れていませんでした。
からゆきさんは猫を何匹も飼っていたので、きっとフレディ少年は猫を見に行って、からゆきさんと会ったことがあるに違いないと確信しました。
フレディが日本を好きなのは、子供の頃に日本人を見たことがあったからなのです!
それでは順を追って説明しましょう。

日本は明治になって鎖国が解かれ、海外と交流するようになりました。
明治26年(1893年)に、日本郵船が最初の遠洋航路、横浜〜ボンベイの路線を開きます。
日本とアフリカの貿易は、ボンベイ経由で行われました。
これで日本とボンベイ(インド)〜ザンジバルのつながりが明らかになります。

日本郵船がインドへ行く前に、シンガポールに停泊しますが、
日本が開国したばかりの明治4年には、既にシンガポールに日本人の「からゆきさん」の姿がありました。
明治になって、日本は海外へ進出していきますが、まず真っ先に「からゆきさん」たちが送られ、その後に店が出来、会社の出張所ができて、船が寄港するようになり、その土地が繁盛するようになっていきます。そして最後に日本の大企業がやってくるのです。
からゆきさんは日本の海外進出の先兵と位置付けられています。
また日本の外貨獲得のために働かされたとする説もあります。

シンガポールのからゆきさんは、明治の後期には1000人を数えるほどに増えていました。
そしてシンガポールを根拠地として、インドのボンベイやアフリカ東海岸へ遠征していきます。
1903年にはアフリカ南端のケープタウンにまで到達していました。クイーンも公演した南アフリカ共和国ですね。
ザンジバルでは1890年代から、からゆきさんの活動が始まり、1920年代には隆盛を誇り、1930年代から次第に衰退していき、第二次世界大戦後には停止していたようです。
ザンジバルのからゆきさんの家
ここがザンジバルのからゆきさんが住んでいた家です。
ザンジバルを初めて訪れた日本人は、からゆきさんだったのです。
からゆきさんは「酒場」や「珈琲店」を経営したり、そこで働いたりしていました。
今でも「ジャパニーズ・バー」というお店が残っているそうです。


からゆきさんとは、主に長崎県などの貧しい漁村の娘さんが、「海外で働くとお金が儲かる」と、うまく誘われて連れて行かれ、実際に行ってみると普通の仕事ではなく、売春をさせれらたというケースが多かったそうです。
娘さんの中には、あまりのショックに気が狂ったり、自殺した人もいたそうです。
明治の娘さんが自分でいきなり外国へ行くことは考えられず、やはり斡旋する業者がいました。
その業者は案内料として、娘たちに多額の借金を負わせ、なかなか日本に帰れないようにしていたのです。

からゆきさんの中には逞しく生き延びて、自分が酒場などを経営するようになった人もいました。
それがザンジバルの「おまきさん」です。
おまきさんは1890年(明治23年)生まれで、しばらくシンガポールで働いた後、24・5才の時にザンジバルへ渡りました。
1915年ごろからストーンタウンで商売をし、1920年代にはかなり繁盛していたそうです。
1930年代には、港に寄港する船に日用雑貨品を売る仕事をしていましたが、第二次世界大戦が起こると、日本はイギリスの敵国となったため、おまきさんは収容所に送られてしまいました。(1980年〜1964年まで、ザンジバルはイギリス領でした)
収容所といっても軟禁状態で、単に放置されていたような状態だったそうです。
そして彼女は戦後も日本に帰らず、ザンジバルに残って年を重ねていきました。
おまきさん
これがザンジバルの「おまきさん」です。30才ぐらいの時。
おまきさんは1959年に、日本へ帰国しました。

ストーンタウンといえば、フレディが住んでいた町。
しかも地図で調べると、フレディの家と、おまきさんの家は僅か100メートルぐらいの距離しかありませんでした!
フレディが生まれた1946年から、フレディがインドへ行く1954年まで、2人は近所に住んでいたことになります。
おまきさんは1915年頃からストーンタウンに住んでいたので、日本人として有名だったそうです。
フレディ少年が町を駆け回っていた1950年頃、おまきさんは60代に差しかかり、つつましい暮らしをしながら、数匹の猫を飼っていました。
ザンジバルですから、猫はどこにでもいたでしょうけれど、猫がいればフレディ少年はつい見たくなってしまうでしょう。
おまきさんは親分肌の面倒見の良い性格だったそうですから、猫好きな少年がいれば、可愛がりたくもなるでしょう。
おまきさんは自分の猫たちに日本の名前をつけていましたから、その名前をフレディ少年もきいたことがあったかもしれません。
後にフレディも自分の猫に「ミコ」という日本名を付けたり、「キラークイーン」にもミナ(マイナ)という芸者名が出てきますよね。
実際に2人が接触したという証拠はありませんが、フレディが日本を好きになった淵源がそこにあるのではないかという気がして仕方がないのです。
猫が好きな優しい日本人のおばさん・・・それがフレディの日本人に対する原イメージになったのかもしれません。

ザンジバルでは、1950年ごろまで「リクショウ」と呼ばれる「人力車」が走っていました。
人力車は明治の初めに日本人が発明したもので、ストーンタウンの狭い路地を走るにはうってつけだったことから、政府のイギリス人や外交官が愛用していたそうです。
インドでも「リキシャ」が沢山走っています。

ザンジバルにはペルシャとのつながりもあります。
ザンジバルとは、ペルシャ語の「ザング(黒人)」と「バル(海岸)」が結びついたものと言われます。
歴史的には、8〜9世紀にペルシャ湾岸からイスラム教徒のペルシャ人が、東アフリカ沿岸部に沢山移住してきました。
15世紀までにはペルシャ人のスルタン王朝ができましたが、16世紀にはポルトガル領となります。
フレディ家も、まるで運命の糸に操られるかのように、インドからザンジバルへ、そしてロンドンへとつながっていくのですね。

ところで、からゆきさんは「娘子軍(ろうしぐん)」とも呼ばれます。
これは明治政府が富国強兵を行なっていた時代に、娘たちをも軍隊になぞらえたのでしょうか。
そもそも、娘たちを東南アジアからインド、アフリカへ連れて行き、売春婦として働かせることを発案したのは誰なのでしょうか?
娘たちを斡旋する女衒の組織がありましたが、開国してすぐに日本人がアフリカまで販路を広げることが可能なのでしょうか?
娘たちを軍隊の先兵のようにして海外へ進出させ、その後に日本の企業が支店を開いていく。
これは一般の日本人が考え付くことではありません。
そしてからゆきさんたちが働いた莫大なお金は、一体どこへ行ったのでしょうか?
からゆきさんたちが働いていた町は、シンガポール、香港、ボンベイ、ザンジバルのストーンタウン、南アフリカのケープタウンなどでした。これらの町に共通することは何でしょう?
そう、これらの町は全てイギリス植民地だったのです。
当時、アジア各国を植民地支配していた欧米の軍隊からの強い要請があったところへ、からゆきさんを派遣していたというのですから、日本のどこが派遣していたのか、おおよその見当はつきますよね。
日本のからゆきさんは、人身売買として世界から非難され、1920年にイギリス領マラヤの日本領事館は、娼婦の追放を宣言しました。
そして、おまきさんがザンジバルから帰国したのは、じつに1959年のことでした。

参考本「ザンジバルの娘子軍」
ストーンタウンの地図が載っています
ザンジバルの娘子軍














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プロフィール

楽園のペリ

Author:楽園のペリ
1975年、初来日の武道館でクイーンを体験、フレディのファンになる。長らくクイーンのことは忘れていたが、映画を見て思い出し、フレディについて研究するうち、ついにロンドンのガーデンロッジや、モントルーのクイーンスタジオまで行ってきました!

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