そろそろフレディ・マーキュリーの正体について書きたいと思う。
結論から言って、フレディは「道化師」である。
フレディは初期の頃から一貫して、道化師の衣装を着用していた。
最も早い時期と思われるものがこれ。

道化師の歴史は、5世紀のエジプトまで遡ることができる。
ローマ帝国でも、富裕者は道化を雇い、祝宴の席で余興をやらせていた。
イギリスやフランスでも、王家や貴族は道化師を抱えていた。
道化師は、特権階級を楽しませるエンターテイナーであり、また愚か者のふりをすることで、王の欠点を笑い者にするようなことまでも、自由にものを言うことができた。
王は絶対であり、影の部分があってはならないので、道化師は王の影の部分を引き受けるスケープゴートであったとされる。
道化師は王様よりも強いので、悪魔や神様と取引した人と言われ、死神や怪物の姿で描かれることがある。
王より強い道化師は最強であり、ゲームを逆転させる切り札、つまりジョーカーであり、死をも恐れない愚か者として王を批判した。
本来は周囲を楽しませる存在である道化に対し、恐怖の対象としての道化もあり、そのような道化師を殺人ピエロ(キラークラウン)と呼ぶ。このあたり、キラークイーンの参考となったのではないか?
ピカソが描いた道化師。
明らかにフレディのモデルになっている。


道化師には、身体障害者(小人など)や精神薄弱者が道化として雇われる場合と、障害が無い人間のケースがある。
中世以前のヨーロッパでは、障害児は純粋で「無意識の知恵」を持っているとされ、大事に扱われていた。
フレディは障害はない人間だが、白人の中で異人種であったことや、性的指向のことなど、どこか自分をアウトサイダーと感じていたのだろうか?
道化師は人を楽しませる存在だが、人から笑い者になる存在でもある。
フレディも自分を笑い者にすることを厭わない性質があったと思われるが、どこか自虐的である。
フレディが道化師の衣装を着るようになったのは、ニジンスキーの影響によると思われる。(バレエの項参照)
ニジンスキーは自らを「神の道化として踊る」と語ったが、次第に精神を病んでしまった。
「神の道化」とは、神を楽しませるという意味で、まさか神を告発するようなことはないだろう。
フレディは聴衆を楽しませるために自らを道化として表現したものであり、イギリスの統治者や時の政権を批判するようなことはなかった。
道化師になれば、世間の常識に捉われず、社会のタブーをも破って発言することができる。
フレディが言いたかったことは、社会的な慣習(人種差別など)や宗教的伝統、そして男女間の一夫一婦制などに対して異議を唱えることだったのではないか?

この後、フレディ作の1984年の「It`s A Hard Life」(永遠の誓い)では、イントロがレオンカヴァッロのオペラ「道化師」のアリア、「Vesti La Giubba」をベースとしている。
やはり「道化師」にこだわりが見られる。
そして1987年の「グレートプリテンダー」
これぞフレディという曲の歌詞に、道化師が登場する。
klown(道化師)とkrown(王冠)の韻を踏んでいる。
「いいよ、成りすましで結構じゃないか
道化師のように、明るく笑おう
本音がどうであろうと、僕は見た目通り
泣きそうな心を無理に装って
王冠を乗せたかのように、華やかに」
そして最後の頃のPVに再び道化師の姿で現れる。
1991年の「狂気への序曲」。
これが道化師なのか実は定かではないが、道化師であるとする解説もある。
すでに病状が進んでいたが、フレディの動きはコミカルで良く研究されており、喜劇王のチャップリンを思い起こさせる。
チャップリンはアメリカから追放された時、「私は道化師であり続ける」と言った。
チャップリンの記念館は、フレディが愛したモントルーの近くにある。
それにしてもお美しい。このビデオの笑顔は最高だ。

「狂気への序曲」が収録されているのは、フレディ存命の最後のアルバム「イニュエンドウ」だが、
そのアルバムジャケットには、19世紀フランスの風刺画家グランヴィルの「Jaggler of Universe」が使われている。
ジャグラーとは大道芸人であり、ペテン師とも言われるが、宮廷道化師も含まれている。
やはり最後まで徹底的に道化師にこだわっていたのだ!

フレディは初期から最後まで、道化師を演じていた。
それがわかって、やっと私は「メイド・イン・ヘブン」の歌詞を理解することができるようになった。
「メイド・イン・ヘブン」(天の配剤)では、フレディが自分の役割を演じていると言っている。
そしてそれは誰の目にも明らかなんだと言う。
1985年発表の作品なので、まだ病気はわからなかった頃。
フレディの役割とは「道化を演じること」だったのだ!
フレディは初期からダイヤ柄の道化師の衣装を着ていたのだから、誰の目にも明らかだったのだ。
「自分の役割を演じ、目的を探し求めてる
みじめさだって受け入れて、魂の糧にしよう
僕の運命、神の望み、すべての事柄には意味がある
僕の運命、神の望み
誰もが皆、僕にそう言うんだ、ほらごらん
本当に正しいよ、簡単な事なんだよ
誰もが、誰もが、誰もが教えてくれる
単純なこと、そして正しいこと
星に記されていたんだよ」 ←これは占星術のこと。
フレディは20年弱の活動期間中、一貫して道化師を演じていた。
それは大衆を楽しませるためでもあったが、世の中の常識や規範を、それでいいのか? あなたはそのままでいいのか?と問いかけ続けていたと言える。
道化師は人の短所や欠点を突いてくる。
その不快な問いかけに対して、私たちはどのように立ち向かうのか?
フレディが仕掛けたゲームは続く。
これこそが皆が参加する「Show must go on」ゲームなのだ。
結論から言って、フレディは「道化師」である。
フレディは初期の頃から一貫して、道化師の衣装を着用していた。
最も早い時期と思われるものがこれ。

道化師の歴史は、5世紀のエジプトまで遡ることができる。
ローマ帝国でも、富裕者は道化を雇い、祝宴の席で余興をやらせていた。
イギリスやフランスでも、王家や貴族は道化師を抱えていた。
道化師は、特権階級を楽しませるエンターテイナーであり、また愚か者のふりをすることで、王の欠点を笑い者にするようなことまでも、自由にものを言うことができた。
王は絶対であり、影の部分があってはならないので、道化師は王の影の部分を引き受けるスケープゴートであったとされる。
道化師は王様よりも強いので、悪魔や神様と取引した人と言われ、死神や怪物の姿で描かれることがある。
王より強い道化師は最強であり、ゲームを逆転させる切り札、つまりジョーカーであり、死をも恐れない愚か者として王を批判した。
本来は周囲を楽しませる存在である道化に対し、恐怖の対象としての道化もあり、そのような道化師を殺人ピエロ(キラークラウン)と呼ぶ。このあたり、キラークイーンの参考となったのではないか?
ピカソが描いた道化師。
明らかにフレディのモデルになっている。


道化師には、身体障害者(小人など)や精神薄弱者が道化として雇われる場合と、障害が無い人間のケースがある。
中世以前のヨーロッパでは、障害児は純粋で「無意識の知恵」を持っているとされ、大事に扱われていた。
フレディは障害はない人間だが、白人の中で異人種であったことや、性的指向のことなど、どこか自分をアウトサイダーと感じていたのだろうか?
道化師は人を楽しませる存在だが、人から笑い者になる存在でもある。
フレディも自分を笑い者にすることを厭わない性質があったと思われるが、どこか自虐的である。
フレディが道化師の衣装を着るようになったのは、ニジンスキーの影響によると思われる。(バレエの項参照)
ニジンスキーは自らを「神の道化として踊る」と語ったが、次第に精神を病んでしまった。
「神の道化」とは、神を楽しませるという意味で、まさか神を告発するようなことはないだろう。
フレディは聴衆を楽しませるために自らを道化として表現したものであり、イギリスの統治者や時の政権を批判するようなことはなかった。
道化師になれば、世間の常識に捉われず、社会のタブーをも破って発言することができる。
フレディが言いたかったことは、社会的な慣習(人種差別など)や宗教的伝統、そして男女間の一夫一婦制などに対して異議を唱えることだったのではないか?

この後、フレディ作の1984年の「It`s A Hard Life」(永遠の誓い)では、イントロがレオンカヴァッロのオペラ「道化師」のアリア、「Vesti La Giubba」をベースとしている。
やはり「道化師」にこだわりが見られる。
そして1987年の「グレートプリテンダー」
これぞフレディという曲の歌詞に、道化師が登場する。
klown(道化師)とkrown(王冠)の韻を踏んでいる。
「いいよ、成りすましで結構じゃないか
道化師のように、明るく笑おう
本音がどうであろうと、僕は見た目通り
泣きそうな心を無理に装って
王冠を乗せたかのように、華やかに」
そして最後の頃のPVに再び道化師の姿で現れる。
1991年の「狂気への序曲」。
これが道化師なのか実は定かではないが、道化師であるとする解説もある。
すでに病状が進んでいたが、フレディの動きはコミカルで良く研究されており、喜劇王のチャップリンを思い起こさせる。
チャップリンはアメリカから追放された時、「私は道化師であり続ける」と言った。
チャップリンの記念館は、フレディが愛したモントルーの近くにある。
それにしてもお美しい。このビデオの笑顔は最高だ。

「狂気への序曲」が収録されているのは、フレディ存命の最後のアルバム「イニュエンドウ」だが、
そのアルバムジャケットには、19世紀フランスの風刺画家グランヴィルの「Jaggler of Universe」が使われている。
ジャグラーとは大道芸人であり、ペテン師とも言われるが、宮廷道化師も含まれている。
やはり最後まで徹底的に道化師にこだわっていたのだ!

フレディは初期から最後まで、道化師を演じていた。
それがわかって、やっと私は「メイド・イン・ヘブン」の歌詞を理解することができるようになった。
「メイド・イン・ヘブン」(天の配剤)では、フレディが自分の役割を演じていると言っている。
そしてそれは誰の目にも明らかなんだと言う。
1985年発表の作品なので、まだ病気はわからなかった頃。
フレディの役割とは「道化を演じること」だったのだ!
フレディは初期からダイヤ柄の道化師の衣装を着ていたのだから、誰の目にも明らかだったのだ。
「自分の役割を演じ、目的を探し求めてる
みじめさだって受け入れて、魂の糧にしよう
僕の運命、神の望み、すべての事柄には意味がある
僕の運命、神の望み
誰もが皆、僕にそう言うんだ、ほらごらん
本当に正しいよ、簡単な事なんだよ
誰もが、誰もが、誰もが教えてくれる
単純なこと、そして正しいこと
星に記されていたんだよ」 ←これは占星術のこと。
フレディは20年弱の活動期間中、一貫して道化師を演じていた。
それは大衆を楽しませるためでもあったが、世の中の常識や規範を、それでいいのか? あなたはそのままでいいのか?と問いかけ続けていたと言える。
道化師は人の短所や欠点を突いてくる。
その不快な問いかけに対して、私たちはどのように立ち向かうのか?
フレディが仕掛けたゲームは続く。
これこそが皆が参加する「Show must go on」ゲームなのだ。
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