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ジョーファネリという献身的な生き方

フレディの周辺で気になる人物にジョー・ファネリがいる。
ジョー・ファネリはフレディが若い頃の恋人で、ガーデンロッジでジム・ハットン、ピーター・フリーストーンと共に、フレディが亡くなるまで共に暮らし、フレディの料理人をつとめた人物です。

もともとフレディにはメアリーという恋人がいましたが、デビッド・ミンスに惚れ込んで同棲し、メアリーとは別れることになりました。
You take my breath awayや、Love of my life、またGood Old Fashioned LoverBoyもデビッドに捧げた曲なので、フレディがどれだけ彼を愛していたかがわかります。
「ラブ・オブ・マイライフ」はメアリーのために書かれた曲と言われていますが、実はデビッド・ミンスなのでした。
デビッド・ミンスとは1975年から1978年、フレディ29才から32才の間の恋愛でした。

1978年、ジャズツアーでアメリカを訪れたフレディは、ジョー・ファネリを見初めて熱を上げました。
ファネリはイタリアからアメリカへの移民で、1951年生まれ(ジョン・ディーコンと同じ)。
1978年にフレディがイギリスへ呼び寄せ、2年ほど恋人として付き合いました。ファネリ27才、フレディ32才の時です。
ファネリは1970年代後半の日本公演にも同行していました。
彼はナイーブでやさしく、傷つきやすい性格だったと言われ、フレディが2人の関係を隠し続けることなどから、様々なプレッシャーに耐えられず、自らフレディとの関係を絶ちました。
その時フレディは、ファネリを失ったことを悲しみ、元彼のデビッド・ミンスに電話して泣いたそうです。
デビッドにしてみれば、はあ?なんで俺に?と思いますよね。
左からジョー・ファネリ、デビッド・ミンス、フレディだと思う。
左からジョー・ファネリ、デビッド・ミンス、フレディだと思う。間違っていたらごめん。
ファネリはご覧の通りキュートな青年。
同性愛者から引く手あまただったと思う。
同性愛者は道を歩くだけで、同類はすぐにわかるという。
ロジャーも美少年なので滅茶苦茶誘われたと思うが、フレディと違って、応じなかったんですね。

1981年から83年までは、ファネリはフレディとの連絡を絶っていましたが、フレディに未練が残り、1983年に友人としての関係を再開しました。
ファネリはフレディの料理人となり、フレディが亡くなるまでの11年間を共に過ごしました。
これはジム・ハットンよりもはるかに長い年月になります。

ファネリはいつもフレディの側にいて、少し下がったところからフレディの世話を焼いていました。
1986年にフレディがジム・ハットンと日本を訪れた時にも同行しています。
ファネリはメアリー同様、恋人としては別れた後も親友となり、フレディの数多くのラバーズが現れては消えるのを見守っていました。
フレディと同居をしていても、元カノのメアリーは毎日のようにやって来るし、新しい彼のジムを目の当たりにして、一体どのような心境だったのでしょうか。
フレディはいつも、元カノや元カレや、元々カレや、元元々カレたちを引き連れているのが好きで、彼らをみんな一部屋に入れてどうなるか楽しんだという悪趣味な面もあったのですが、なにしろファネリは繊細でセンシティブなのですから、どうしてそのような状況に耐えられたのでしょう?
料理人として給料を貰っていたからお金のため? それともフレディの魅力のため?
フレディはファネリを大切にして、誕生日に部屋いっぱいのバラの花を贈ったり、家具を作ってあげたりしていました。
ファネリもフレディが出かけると、どこに行ったかを必ず知っていました。
フレディの晩年、病気の発作が起こると、フレディの体を抑えて鎮めることができるのはファネリだけでした。

フレディは何事も過剰になる人で、常識を突破したい人だったので、一夫一婦制やステディな恋人関係をぶち壊したかったのでしょう。それはそれで理解できますが、ぶち壊される方の人はたまったものではありません。
フレディは自分のハーレムを作りたかったわけですが、彼の死後にはやはり相続を巡る確執を招いてしまいました。

長い間フレディに献身的に仕えてきたファネリですが、悲しいことにエイズに感染してしまいます。
1990年に、すでに進行した状態であると診断されました。
ファネリの病気を知って衝撃を受けたジム・ハットンは、自らも検査を受ける決心をします。
その結果、ジムも感染していたのですから、ガーデンロッジは「エイズの館」となってしまいました。
同居していたピーター・フリーストーンも同性愛者でしたが、HIV陰性だったので、フレディの周囲で感染しなかったのは彼だけだと言われています。

ファネリは自分も同じ病であるというのに、フレディが次第に衰弱していく日々に付き添って介護をしていました。
それはいずれは自分もこうなるということを見せつけられる毎日だったわけですから、どんなに辛く恐ろしかったことでしょう。
しかも自分の病の原因は、目の前のフレディであるというのに!
これは本当に試練の毎日だったことは想像に難くありません。
とくに最後の頃は、死にゆく人だけではなく、介護者も精神的に消耗しますので並大抵のことではありません。

フレディの死期が近づくと、ファネリは自分の将来が心配になり、フレディに頼んで小さな家を買ってもらいました。
案の定、フレディが亡くなると、メアリーはファネリやジム、ピーターを追い出してしまいます。
メアリーはジムとファネリを嫌っていたので、フレディが亡くなって直後のクリスマスパーティーにファネリを呼びませんでした。

1991年の11月にフレディが亡くなり、その後、1992年の2月末にジムはファネリと再会しました。
ファネリは激やせしており、体調もよくなさそうでしたが、まだ将来に対する希望を持ち、小さなホテルを買ってビジネスをしたいことや、日本にも行きたいので一緒に行かないかと誘っていたそうです。
ところがそれから10日ほど後に、ファネリは突然亡くなってしまいます。
フレディの病はゆっくりとした経過をたどったのに、ファネリはあまりに突然の呆気なさでした。

ジョー・ファネリは27才から40才までの若い時代をフレディに捧げ、ついには命までも奪われることになってしまいました。
フレディは意図しなかったかもしれませんが、周囲の人に対してずいぶんカルマを作ってしまったように思います。
フレディは自分でお茶を入れるのもいやで、世話をしてくれる人が欲しかったのですが、そのために人の人生を奪ってしまったとは!
ジョーファネリ
ファネリは11年間、フレディの影にあり、フレディの多くのラバーズを見届け、自らも病を引き受け、フレディの最後を看取りました。
このような献身的な生き方をした人がいるということも、現代の伝説となっと私たちの心を打つのです。

ジョー・ファネリよ安らかに!
天国でフレディと会って、時々日本へ遊びに来ているでしょうか?








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プロフィール

楽園のペリ

Author:楽園のペリ
1975年、初来日の武道館でクイーンを体験、フレディのファンになる。長らくクイーンのことは忘れていたが、映画を見て思い出し、フレディについて研究するうち、ついにロンドンのガーデンロッジや、モントルーのクイーンスタジオまで行ってきました!

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