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フレディは「道化」で「英雄」のトリックスターだ!!

「フレディは道化師である」という結論を書きましたが、実はその上にもう一段奥の結論があります。
それは「フレディはトリックスターである」という最終結論です!

トリックスター とは、神話や物語の中で、神や自然界の秩序を破り、物語を展開する者のこと。
善と悪、破壊と生産、賢者と愚者など、異なる二面性を持つのが特徴である。(Wikipediaより)

トリックスターは文化人類学や神話学で扱われる類型で、ユングも元型論に加えました。
トリックスターは光と闇の二面性を持ち、境界を突破して、これまで安定していた世界を破壊します。
そして神のように振る舞うこともあれば、突然に失墜することもあります。

日本のスサノオノミコトや孫悟空、またギリシャ神話のヘルメス(マーキュリー)もトリックスターと考えられています。
フレディはマーキュリーを名乗って以来、トリックスターとなることが運命付けられていたのかもしれません。
ヘルメス トリックスター

トリックスターは価値の転倒を行ない、天と地を結ぶ。
道化役を担い、王にもなるが没落する。
古い世界を破壊して波乱を起こすが、文化の発展を促す「文化英雄」とされることが多い。

フレディもお坊ちゃん育ちなのに、やたらとバッドガイになりたがり、しょっちゅうファックとかビッチと言っている。
フレディを「高貴で気高いあばずれ」と形容した人がいます。あばずれはビッチですね。

トリックスターは創造し、破壊する。贈与するが自分も受け取る。人を騙すが、自分も騙される存在。
彼は何も欲しない。彼は押さえつけられない衝動からのように、常にやむなく振舞っている。
彼は善も悪も何も知らないが、両方に対して責任がある。
道徳的、あるいは社会的な価値は持たず、情欲と貪欲に左右されているが、その行動を通じて、すべての価値が生まれてくる。
 
とてもよくフレディに似ているような気がする。

トリックスターは、「狡猾」「粗暴」「悪知恵」「愚かさ」などの特性を備え、決して道徳的に褒められる存在ではありません。
でも、その「道化性」ゆえに、境界を越えて幅広く行動するという特性をもち「英雄的偉業」を成し遂げることがあるのです。
やはり道化師なのですね。

ユングの『トリックスター』より
「彼は救世主の先駆者であり、救世主のように神であり、人間であり、動物である。彼は人間以下でも以上でもあり半神半獣的存在であり、彼の主な驚くべき特徴は、無意識である。そのため、彼は彼の(明らかに人間の)仲間から見棄てられるが、それは仲間の意識水準からの落ち込みを示唆しているのであろう。」

ユングによれば、トリックスターとは「救世主の先駆者」であり、「愚か者」と「道化」としての側面もありながら、「英雄性」 も併せ持っています。
トリックスターの大きな特徴は、ひとつのキャラクターの中に「道化性」と「英雄性」という相反する要素をもった両義性にあると言えます。
フレディにとても良く当てはまりますね。
フレディ トリックスター

「愚か者」といえば思い出すのは、タロットカードのゼロ番「愚者」のカード。
「愚者」The Foolは、道化師の衣装を身につけ、棒を持って旅をしている。
頭には王冠を被っているので、かつては高貴な存在で権力があり、天上との交信の能力を持っていたことを表している。
つまり「愚者」は愚かであると同時に優れており、何も持っていないが全てを知っている人物。
かつては全てを持っていたが、今は全てを放棄して自由になった人。
これはトリックスターの「価値の転倒」と似ています。

「愚か者」は、この世の価値が転倒していることを示唆しています。
これはプラトンの「洞窟の比喩」にも語られています。
洞窟に住む縛られた人々が見ているのは、実体の「影」であるが、それを実体だと思い込んでいる。
同じように、私たちが現実に見ているのものは、イデアの「影」に過ぎないと、ブラトンは言っています。
私たちが考える世の中の成功や富や名声は、実体の「影」に過ぎないものであり、本当の「実体」は私たちの背後にあります。
それを私たちに気づかせるために、道化師やトリックスターたちは暗躍しているのです!

トリックスターとは、神話の世界や、文化人類学の研究対象の中にいるのではなく、現実の人間として存在するということをフレディは教えてくれました。
私たちは20世紀のトリックスターを実際に目撃したのです!

トリックスターを目撃
見たにゃ。


8月から4ヶ月にわたって書いてきましたが、一応の結論に達したので、ここで一区切りにしたいと思います。
また何かあれば書きます。
1月26日のクイーンのコンサートには行きます。
44年ぶりにブライアンとロジャーに会えるなんて!

それでは皆さま良いお年を!



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エンターテイメントと3S政策について

フレディはエンターテイナーである。
エンターテイメントとは娯楽のことであり、スポーツやコンサート、舞台演劇などを指します。
スポーツが娯楽に入っているというのも驚きですが、エンターテイメントの範囲は広く、歌やダンスからマジック、お笑い、映画、アニメ、テレビのバラエティ番組、音楽番組、TVドラマ、演劇、サーカス、ゲーム、遊園地、ラジオ、新聞、雑誌、インターネット、プラモデル、小説、漫画、ギャンブルなど、実に様々なジャンルに渡って、私たちの生活に浸透しています。

ところで「3S政策」のことはご存じでしょうか?
3S政策とは、「Screen(スクリーン=映画鑑賞)、Sport(スポーツ=プロスポーツ観戦)、Sex(セックス=性産業)を用いて大衆の関心を政治に向けさせないようにする愚民化政策である」とされています。(Wikipedeaより)
これはアメリカの日本占領中に行われた政策とされていますが、見たところ、戦後もずっと続いていると思われます。
他には韓国で行われたとされますが、欧米の若者たちも全く同じ3Sに侵されているように見えます。

この政策により、日本では性風俗が開放され、映画やエンターテインメントが興隆し、プロ野球が国民的娯楽となりました。
3Sに目を向けさせることにより、民衆が感じている社会生活上の様々な不安や、政治への関心を逸らさせて、大衆を自由に思うがままに操作し得るとされます。簡単に言えば「ガス抜き」政策のこと。
これにより日本は「一億総白痴化した」と言われます。

3Sのうち、スクリーン(映画)により、悪者が退治され、正義が勝つシーンを見せられれば、世の中への不満が解消される疑似体験となって、社会悪に対する不満が薄れ、社会に隷属させることができると考えられました。
スクリーンには映画の他、テレビやビデオも含まれ、今ではUtubeも大活躍です。
テレビの音楽番組やMTVをはじめとするミュージックビデオも、もちろん若者を洗脳する装置として機能します。
洗脳の目的とは、政治や経済から民衆の目を逸らさせることです。

3Sのスクリーン鑑賞、スポーツ観戦、セックス産業と、エンターテイメントは殆ど重なっており、同じものだと言えます。
エンターテイメントには映画、音楽、スポーツ、性産業も含まれています。

フレディは音楽産業のエンターテイナーです。
彼は決して政治的な発言をすることはなく、「政治のことは専門家に任せておけばいいよ」と言っていました。
この発言は、多くの若者に影響を与えることでしょう。
日本でも、選挙には行かない、選挙に行っても仕方がないと言う若者はよく見かけます。
フレディは音楽産業のスターとして、図らずも3S政策の先導者としての役割をも担ってしまったのです。
これはフレディが意図したものとは思えず、結果的にそうなってしまったのかもしれません。
フレディ、エンターテイナー

フレディは音楽を愛し、ただひたすらに音楽をやりたかった。
そして音楽に政治は持ち込まず、切り離していました。
一方、フレディがミュージシャンとして活躍するための場所を提供する側があり、レコード会社やマネージメントを行なう音楽産業サイドでは、フレディに対してどのような要求または誘導を行ったのかはわかりません。
フレディは自分の恋愛体験を歌にして歌いたかった。
それは3S政策側としては願ってもないことで、3Sとしては、民衆の男性にはセックスを与え、女性には恋愛の夢を与えることで、人間が考える頭を奪うことが目的だったからです。
フレディは飛んで火に入る夏の虫だったのかもしれません。
フレディ自体、音楽産業の中でドラッグやセックスが自由になり、3Sに洗脳された被害者であり、同時に3Sのスターとなって人々に影響を与える存在になったのかもしれません。

そのように考えると恐ろしいことですが、これは何も隠された秘密ではなく、普通にWikipediaに載っていますので、誰の目にも明らかなものであり、周囲の状況を見渡してみれば、いかに3Sが浸透しているかを確認することができます。
ちなみにインターネットやUtubeも愚民化の道具なので、どうぞ気をつけてください。

そうした事実があるにしても、音楽は音楽!
誰かの思惑には関係なく音楽のスピリットは存在し、私たちは貴い音楽を宝物として持っています。
誰にも侵されることのない神聖なる音楽空間を胸に、私たちは生きていこう!


フレディは道化師を演じ続けた

そろそろフレディ・マーキュリーの正体について書きたいと思う。
結論から言って、フレディは「道化師」である
フレディは初期の頃から一貫して、道化師の衣装を着用していた。
最も早い時期と思われるものがこれ。
フレディ道化師1

道化師の歴史は、5世紀のエジプトまで遡ることができる。
ローマ帝国でも、富裕者は道化を雇い、祝宴の席で余興をやらせていた。
イギリスやフランスでも、王家や貴族は道化師を抱えていた。
道化師は、特権階級を楽しませるエンターテイナーであり、また愚か者のふりをすることで、王の欠点を笑い者にするようなことまでも、自由にものを言うことができた。
王は絶対であり、影の部分があってはならないので、道化師は王の影の部分を引き受けるスケープゴートであったとされる。

道化師は王様よりも強いので、悪魔や神様と取引した人と言われ、死神や怪物の姿で描かれることがある。
王より強い道化師は最強であり、ゲームを逆転させる切り札、つまりジョーカーであり、死をも恐れない愚か者として王を批判した。
本来は周囲を楽しませる存在である道化に対し、恐怖の対象としての道化もあり、そのような道化師を殺人ピエロ(キラークラウン)と呼ぶ。このあたり、キラークイーンの参考となったのではないか?

ピカソが描いた道化師。
明らかにフレディのモデルになっている。
ピカソの道化師

フレディのダイヤ柄

道化師には、身体障害者(小人など)や精神薄弱者が道化として雇われる場合と、障害が無い人間のケースがある。
中世以前のヨーロッパでは、障害児は純粋で「無意識の知恵」を持っているとされ、大事に扱われていた。
フレディは障害はない人間だが、白人の中で異人種であったことや、性的指向のことなど、どこか自分をアウトサイダーと感じていたのだろうか?
道化師は人を楽しませる存在だが、人から笑い者になる存在でもある。
フレディも自分を笑い者にすることを厭わない性質があったと思われるが、どこか自虐的である。

フレディが道化師の衣装を着るようになったのは、ニジンスキーの影響によると思われる。(バレエの項参照)
ニジンスキーは自らを「神の道化として踊る」と語ったが、次第に精神を病んでしまった。
「神の道化」とは、神を楽しませるという意味で、まさか神を告発するようなことはないだろう。
フレディは聴衆を楽しませるために自らを道化として表現したものであり、イギリスの統治者や時の政権を批判するようなことはなかった。
道化師になれば、世間の常識に捉われず、社会のタブーをも破って発言することができる。
フレディが言いたかったことは、社会的な慣習(人種差別など)や宗教的伝統、そして男女間の一夫一婦制などに対して異議を唱えることだったのではないか?

黒白ダイヤ

この後、フレディ作の1984年の「It`s A Hard Life」(永遠の誓い)では、イントロがレオンカヴァッロのオペラ「道化師」のアリア、「Vesti La Giubba」をベースとしている。
やはり「道化師」にこだわりが見られる。

そして1987年の「グレートプリテンダー
これぞフレディという曲の歌詞に、道化師が登場する。
klown(道化師)とkrown(王冠)の韻を踏んでいる。

「いいよ、成りすましで結構じゃないか
道化師のように、明るく笑おう
本音がどうであろうと、僕は見た目通り
泣きそうな心を無理に装って
王冠を乗せたかのように、華やかに」

そして最後の頃のPVに再び道化師の姿で現れる。
1991年の「狂気への序曲」。
これが道化師なのか実は定かではないが、道化師であるとする解説もある。
すでに病状が進んでいたが、フレディの動きはコミカルで良く研究されており、喜劇王のチャップリンを思い起こさせる。
チャップリンはアメリカから追放された時、「私は道化師であり続ける」と言った。
チャップリンの記念館は、フレディが愛したモントルーの近くにある。
それにしてもお美しい。このビデオの笑顔は最高だ。
狂気への序曲

「狂気への序曲」が収録されているのは、フレディ存命の最後のアルバム「イニュエンドウ」だが、
そのアルバムジャケットには、19世紀フランスの風刺画家グランヴィルの「Jaggler of Universe」が使われている。
ジャグラーとは大道芸人であり、ペテン師とも言われるが、宮廷道化師も含まれている。
やはり最後まで徹底的に道化師にこだわっていたのだ!
イニュエンドウ

フレディは初期から最後まで、道化師を演じていた
それがわかって、やっと私は「メイド・イン・ヘブン」の歌詞を理解することができるようになった。
「メイド・イン・ヘブン」(天の配剤)では、フレディが自分の役割を演じていると言っている。
そしてそれは誰の目にも明らかなんだと言う。
1985年発表の作品なので、まだ病気はわからなかった頃。
フレディの役割とは「道化を演じること」だったのだ!
フレディは初期からダイヤ柄の道化師の衣装を着ていたのだから、誰の目にも明らかだったのだ。

「自分の役割を演じ、目的を探し求めてる
みじめさだって受け入れて、魂の糧にしよう
僕の運命、神の望み、すべての事柄には意味がある
僕の運命、神の望み
誰もが皆、僕にそう言うんだ、ほらごらん
本当に正しいよ、簡単な事なんだよ
誰もが、誰もが、誰もが教えてくれる
単純なこと、そして正しいこと
星に記されていたんだよ」 ←これは占星術のこと。

フレディは20年弱の活動期間中、一貫して道化師を演じていた。
それは大衆を楽しませるためでもあったが、世の中の常識や規範を、それでいいのか? あなたはそのままでいいのか?と問いかけ続けていたと言える。
道化師は人の短所や欠点を突いてくる。
その不快な問いかけに対して、私たちはどのように立ち向かうのか?
フレディが仕掛けたゲームは続く。
これこそが皆が参加する「Show must go on」ゲームなのだ。






「フレディ・マーキュリー 自らが語るその人生」

自らの人生を語る

フレディ・マーキュリー 自らが語るその人生」を読みました。
いくつかインタビューの動画を見たことがありましたが、フレディが早口なので、さっぱりわかりませんでした。
この本を読んで、やっとインタビューの内容がわかり嬉しい。

フレディの20年にわたるインタビューの集大成なので、20年も経てば本人の考えも変わるでしょう。
私も20年前に自分が言ったことなんて覚えていません。
それにしても若い頃から自分の考えをハッキリ述べていて立派です。
やはり知的で独創的なことがわかります。
残念なのは、いつのインタビューなのか、年月日の記載がないことです。

驚いたのは、睡眠時間が1日3〜4時間で足りるとのこと。まるでナポレオンですね!
そうすると、8時間寝ている人の半分なので、起きている時間が長く、45年の人生でも50年以上生きていた計算になります。
やはり年齢というのは、人それぞれの生き方によって密度が違うということがわかります。

「イニュエンドウ」の頃になっても、非常に冷静に人生を語っていることに感銘を受けました。
つまり、自分の人生の限界を知っていたわけですから。
それでも変わらずに、常に前向きに進み続けたフレディ。
でも考えてみれば、私たちの人生にも必ずいつか限界が来ます。
私たちは皆、死亡率100パーセントなのですから。

面白かったのは、歌の作り方を話しているところ。
まずメロディーが浮かび、それから曲の構成を考えて、最後に歌詞を付けるそうです。
それでは、いつコードをつけるのでしょう?
ピアノの前に座って作曲することはないと言っていますから、コード付けが謎です。
それが知りたかったなあ。

とにかくフレディは音楽が好きで、非常な集中力があり、生涯を通じて熱心に音楽に取り組んでいたことがわかります。
「彼ほど強く、そして音楽を心から愛した人間をフレディ以外に見た事はない。」とはブライアンの言葉です。
作曲家のマイク・モランは「フレディは20世紀の 象徴的パフォーマーの一人として記憶されるべき。偉大な作曲者であり偉大な人間。不世出の人。墓銘碑にどう書くべきかわからないけど、私から見て彼は正真正銘独創的。」と賛辞を送っています。

今までこのブログを書いてきて、ネットからの情報や、少ない書籍をもとに、パズルのピースを当てはめるようにフレディ像を描いてきましたが、この本はフレディの生の声が聞けるので、一気にフレディ像が鮮明になったような気がします。
でもこれは公のインタビューですから、放送されたり活字になったりする前提の発言であることを考えると、フレディも本心は語っていないところがあるでしょうし、照れ隠しもあるでしょうし、また格好付けもあるでしょう。
誰もフレディを100パーセント知ることはできないし、自分のことを100パーセント知っている人もいないでしょう。
(たとえば自分の潜在意識、無意識のことはわからない)

インタビューでは、フレディが自分のことを莫大な財産があると言っているし、自分は美しいと言っているし、傲慢なところもあり、また正直な人でもあるので憎めない。
しかし有名でお金持ちになったために、親しい人から裏切られたことがあり、次第に人が信じられなくなり、人との間に壁をつくり、孤独になっていくところが悲しい。
有名になると、常にマスコミに追いかけられるようになり、事実とは全く違うことを書かれたり、ひどく批判されたりするので、そのプレッシャーに耐えられなくなり、アルコールやドラッグで壊れていく人も多いという。
フレディはさんざんマスコミに叩かれながら、本当に強靭な精神の持ち主だったのだ。

世の中には才能がある人が沢山いるのに、正当な評価を受けていない人がいるという。
そのような人は自分で自分を世の中に押し出すべきだし、ビジネスセンスを身につけた方が良いという、若者へのアドバイスはありがたいですね。

「自分は人々を幸せにしているという事実は、それがどんな形であれ、嬉しくてたまらない。たとえ彼らの人生のたった30分だったとしても、幸せだなあ、気持ちいいなあ、と感じてもらえるのなら、あるいは苦い顔に笑みをもたらせられるのなら、僕にとってそれは、とても価値のあることなんだ」
この部分が最も感動的でした。
人を幸せにするということは、人間にとって最も意味のあることだと思います。
フレディはそれを実行していたのですから、最高の人生ですね!

フレディはよく、人生を楽しみたいとか、とにかくお金を儲けて、それを使いたいんだとか言っていましたが、もちろんそれは人生の目的ではないでしょう。
私が考える人生の目的とは、まず精神的・経済的に自立すること。(女性も)
そしてなるべく視野を広げ、自分の誤り、偏見、歪みなどを取り去ってゆくこと。
生まれた時のような真っさらな状態へ戻っていくこと。
そして自分が感じた幸せや喜びを、周囲の人へ伝えていくこと。
ではないかな、と思っています。

今年もあと3日ですね。

ティソ「キャスリーン・ニュートンの肖像」

フレディが最後に買ったティソの絵について、続報です。
ティソの愛人、キャスリーン・ニュートンの肖像、この絵だということがわかりました。
この絵が描かれた後、彼女は病気で亡くなり、ティソはそれをきっかけにカトリックを信仰するようになりました。
この絵を見た限り、彼女にそのような憂いはなく、チャーミングな印象ですが、すでに病にかかっていた彼女にフレディは惹きつけられました。
この絵を買った頃、フレディは最後の録音「マザーラブ」を歌っています。
マザーというには若い女性ですから、やはりフレディは自分の母親ではなく「永遠に女性なるもの」に憧れたのでしょう。
そしてフレディはこの絵と共に最後の時を過ごし、永遠なる女性に導かれて昇天しました。

ティソ 「キャスリーン・ニュートンの肖像」
キャスリーン・ニュートンの肖像

榛原の和紙

フレディが日本へ来た時、日本橋の和紙のお店へ行き、和紙を買って帰って自宅の壁に貼ったという。
日本橋には和紙のお店がいくつかありますが、老舗として最も有名なのは「榛原」(はいばら)です。
これは江戸っ子ならば知らない人はいない。
京都の「鳩居堂」と並ぶ名店です。
私も江戸っ子の端くれですし、友人が歌舞伎座で下座音楽をやっていて、榛原の文具をくれたことがあるので、私も榛原の便箋や小物を使っています。
榛原の商品はオンラインで購入することもできます。
https://haibara-shop.jp

榛原の和紙
榛原の和紙1

榛原の和紙2

榛原の和紙3

フレディは一体どんな和紙を壁に貼っていたのでしょうね?

「如来になったフレディ」

武田仁という仏画家がいます。
どのような仏画なのか見てみました。
仏画1

このように細い線でシンプルに描く方なので、いわゆる仏画のイメージとは違いますが、とてもきれいな線で、やわらかい印象です。
仏像たちがやさしく「大丈夫だよ」と言っているような気がします。
この仏画家が、フレディの絵を描いているのです!
武田氏はグラフィック・デザイナー出身なので、フレディと通じるものがあるのでは?

武田氏のサイトから引用します。
「何度目かの来日公演の際、日本のお土産にとプロモーターからプレゼントされた武田仁の画集と版画に感動したフレディは「タケダに会いたい」と切望した。1986年、ジャパンツアーで来日したフレディは武田との対面を果たし、その席で「いつか自分のポートレートを描いてくれないか」と依頼した。武田は快諾し、完成次第手渡す約束をする。

 しかし、ほどなくフレディは病没してしまった。受け取り手がいなくなった絵をどうするべきか、クイーンのマネージャー、ジム・ビーチ氏と相談した結果、フレディの母へ贈ることとなった。作品はかなりの大きさが有った為、破損しないように輸送するには相応の費用がかかった。だが、レコード会社を通じて募金を呼びかけたところ、またたく間に費用が集まり、作品は無事、フレディの母のもとへと届けられた。贈った絵(如来になったフレディ)はドミニオン・シアターのフレディ・マーキュリー展示室とお母さんの自宅に飾られている。」

如来になったフレディ」は、この絵ではないかと思います。
如来になったフレディ

「如来になったフレディ」の絵では、如来と共にフレディが描かれています。
如来には薬師如来、阿弥陀如来、大日如来などがありますが、この絵は阿弥陀如来であると思われます。
阿弥陀如来と大日如来は、ゾロアスター教の最高神アフラ・マズダーを起源とするという説があります。
阿弥陀仏の救済的性格は、ゾロアスター教の影響と言われます。
大乗仏教そのものがゾロアスター教の影響を受けており、阿弥陀如来に関する経典は北西インドで成立したものです。
ゾロアスター教研究の岡田明憲氏は、「浄土」という概念もゾロアスター教から来ており、そこにゾロアスター教の終末における世界の浄化の影響があるとしています。
そんなことを知ったら、フレディもさぞ驚いたことでしょうね。
つまり上の絵は、フレディとアフラ・マズダーが一緒にいる絵とも言えるのですから。

これは阿修羅か、千手観音か?
阿修羅か千手観音か

武田仁の経歴では、1981年に銀座の画廊「月光荘」で個展を開き、オーナーの中村曜子は恩人であるとしています。
中村曜子は、ピアニストの中村紘子の母親で、大変な経営手腕があり、政財界に広く人脈を持っていました。
しかし、1985年にレオナルド・ダ・ヴィンチの贋作を21億5000万円で売り込もうとした「月光荘事件」を起こし、国際的なスキャンダルとなりました。
その贋作をイタリアから無断で持ち出したことが、イタリアの文化財保護法に抵触するとして、ミラノ検察庁が捜査を行ない、1988年にミラノ検察庁に起訴されました。
1989年には、ゴルフ場会社の役員から預かったルノワールの『花束』を1億4500万円で売却し、その代金を横領した容疑で東京地検に書類送検されました。

中村曜子は1992年に亡くなりましたが、武田仁が墓参りに行ったところ、その墓は木柱一本だったそうです。

武田仁は、1981年、1983年、1985年にも月光荘で個展を開いています。
1985年は「月光荘事件」が起きた年ですから、何とも微妙です。
武田氏は月光荘の後、ベルギーのブリュッセルやニューヨークでも個展を開いており、欧米では知る人ぞ知るという仏画家になりました。
日本人が見ると不思議な絵ですが、外国人には人気があるようです。

フレディの絵をプリントしたTシャツもあります。
武田フレディ





ジョーファネリという献身的な生き方

フレディの周辺で気になる人物にジョー・ファネリがいる。
ジョー・ファネリはフレディが若い頃の恋人で、ガーデンロッジでジム・ハットン、ピーター・フリーストーンと共に、フレディが亡くなるまで共に暮らし、フレディの料理人をつとめた人物です。

もともとフレディにはメアリーという恋人がいましたが、デビッド・ミンスに惚れ込んで同棲し、メアリーとは別れることになりました。
You take my breath awayや、Love of my life、またGood Old Fashioned LoverBoyもデビッドに捧げた曲なので、フレディがどれだけ彼を愛していたかがわかります。
「ラブ・オブ・マイライフ」はメアリーのために書かれた曲と言われていますが、実はデビッド・ミンスなのでした。
デビッド・ミンスとは1975年から1978年、フレディ29才から32才の間の恋愛でした。

1978年、ジャズツアーでアメリカを訪れたフレディは、ジョー・ファネリを見初めて熱を上げました。
ファネリはイタリアからアメリカへの移民で、1951年生まれ(ジョン・ディーコンと同じ)。
1978年にフレディがイギリスへ呼び寄せ、2年ほど恋人として付き合いました。ファネリ27才、フレディ32才の時です。
ファネリは1970年代後半の日本公演にも同行していました。
彼はナイーブでやさしく、傷つきやすい性格だったと言われ、フレディが2人の関係を隠し続けることなどから、様々なプレッシャーに耐えられず、自らフレディとの関係を絶ちました。
その時フレディは、ファネリを失ったことを悲しみ、元彼のデビッド・ミンスに電話して泣いたそうです。
デビッドにしてみれば、はあ?なんで俺に?と思いますよね。
左からジョー・ファネリ、デビッド・ミンス、フレディだと思う。
左からジョー・ファネリ、ポール・プレンター、フレディ。
ファネリはご覧の通りキュートな青年。
同性愛者から引く手あまただったと思う。
同性愛者は道を歩くだけで、同類はすぐにわかるという。
ロジャーも美少年なので滅茶苦茶誘われたと思うが、フレディと違って、応じなかったんですね。

1981年から83年までは、ファネリはフレディとの連絡を絶っていましたが、フレディに未練が残り、1983年に友人としての関係を再開しました。
ファネリはフレディの料理人となり、フレディが亡くなるまでの11年間を共に過ごしました。
これはジム・ハットンよりもはるかに長い年月になります。

ファネリはいつもフレディの側にいて、少し下がったところからフレディの世話を焼いていました。
1986年にフレディがジム・ハットンと日本を訪れた時にも同行しています。
ファネリはメアリー同様、恋人としては別れた後も親友となり、フレディの数多くのラバーズが現れては消えるのを見守っていました。
フレディと同居をしていても、元カノのメアリーは毎日のようにやって来るし、新しい彼のジムを目の当たりにして、一体どのような心境だったのでしょうか。
フレディはいつも、元カノや元カレや、元々カレや、元元々カレたちを引き連れているのが好きで、彼らをみんな一部屋に入れてどうなるか楽しんだという悪趣味な面もあったのですが、なにしろファネリは繊細でセンシティブなのですから、どうしてそのような状況に耐えられたのでしょう?
料理人として給料を貰っていたからお金のため? それともフレディの魅力のため?
フレディはファネリを大切にして、誕生日に部屋いっぱいのバラの花を贈ったり、家具を作ってあげたりしていました。
ファネリもフレディが出かけると、どこに行ったかを必ず知っていました。
フレディの晩年、病気の発作が起こると、フレディの体を抑えて鎮めることができるのはファネリだけでした。

フレディは何事も過剰になる人で、常識を突破したい人だったので、一夫一婦制やステディな恋人関係をぶち壊したかったのでしょう。それはそれで理解できますが、ぶち壊される方の人はたまったものではありません。
フレディは自分のハーレムを作りたかったわけですが、彼の死後にはやはり相続を巡る確執を招いてしまいました。

長い間フレディに献身的に仕えてきたファネリですが、悲しいことにエイズに感染してしまいます。
1990年に、すでに進行した状態であると診断されました。
ファネリの病気を知って衝撃を受けたジム・ハットンは、自らも検査を受ける決心をします。
その結果、ジムも感染していたのですから、ガーデンロッジは「エイズの館」となってしまいました。
同居していたピーター・フリーストーンも同性愛者でしたが、HIV陰性だったので、フレディの周囲で感染しなかったのは彼だけだと言われています。

ファネリは自分も同じ病であるというのに、フレディが次第に衰弱していく日々に付き添って介護をしていました。
それはいずれは自分もこうなるということを見せつけられる毎日だったわけですから、どんなに辛く恐ろしかったことでしょう。
しかも自分の病の原因は、目の前のフレディであるというのに!
これは本当に試練の毎日だったことは想像に難くありません。
とくに最後の頃は、死にゆく人だけではなく、介護者も精神的に消耗しますので並大抵のことではありません。

フレディの死期が近づくと、ファネリは自分の将来が心配になり、フレディに頼んで小さな家を買ってもらいました。
案の定、フレディが亡くなると、メアリーはファネリやジム、ピーターを追い出してしまいます。
メアリーはジムとファネリを嫌っていたので、フレディが亡くなって直後のクリスマスパーティーにファネリを呼びませんでした。

1991年の11月にフレディが亡くなり、その後、1992年の2月末にジムはファネリと再会しました。
ファネリは激やせしており、体調もよくなさそうでしたが、まだ将来に対する希望を持ち、小さなホテルを買ってビジネスをしたいことや、日本にも行きたいので一緒に行かないかと誘っていたそうです。
ところがそれから10日ほど後に、ファネリは突然亡くなってしまいます。
フレディの病はゆっくりとした経過をたどったのに、ファネリはあまりに突然の呆気なさでした。

ジョー・ファネリは27才から40才までの若い時代をフレディに捧げ、ついには命までも奪われることになってしまいました。
フレディは意図しなかったかもしれませんが、周囲の人に対してずいぶんカルマを作ってしまったように思います。
フレディは自分でお茶を入れるのもいやで、世話をしてくれる人が欲しかったのですが、そのために人の人生を奪ってしまったとは!
ジョーファネリ
ファネリは11年間、フレディの影にあり、フレディの多くのラバーズを見届け、自らも病を引き受け、フレディの最後を看取りました。
このような献身的な生き方をした人がいるということも、現代の伝説となって私たちの心を打つのです。

ジョー・ファネリよ安らかに!
天国でフレディと会って、時々日本へ遊びに来ているでしょうか?








アイルランドに平和を!

フレディの最後の恋人だったジム・ハットンは、アイルランドの出身です。
ライブエイドの立役者だったボブ・ゲルドフもアイルランド人で、フレディのマネージャーで恋人だったポール・プレンターは北アイルランド出身です。
アイルランドは長らくイギリスの支配下にあり、イギリスから過酷な扱いを受けてきたので、今でもアイルランド人はイギリスを良く思っていないようです。
今でもアイルランドの人に対して、イギリスと比較するようなことや、北アイルランド問題を話題にすることは避けた方が良いそうです。
ジム・ハットンはロンドンに来て、フレディと同棲するようになりましたが、イギリスに対しては複雑な思いがあったのではないでしょうか。
そんなアイルランドについて、ちょっとおさらいしてみます。
ジムとフレディ

⭐︎アイルランドといえばケルト文化!
紀元前265年ごろより、ヨーロッパからケルト人の渡来が始まりました。
ケルト人は高い文化を持っていましたが、集権的な政治形態ではなく、富の蓄財もしなかったため、次第にキリスト教に追いやられてしまいます。
しかしケルトの伝統はヨーロッパで長く息づき、ブリティッシュロックにも影響を与えました。
キングクリムゾンの「リザード」のジャケットにはケルト文様の凝ったデザインが一面に描かれており、「ディシプリン」のジャケットには、ケルトの結び目細工をもとにしたデザインが使われています。
ケルト系のミュージシャンでは、エンヤが有名です。
現在のアイルランドには「アイリッシュ・パンク」や「ケルトロック」もあるそうです。

映画「タイタニック」でも見られたアイリッシュダンスは、ケルト音楽と共に踊ります。(リバーダンスともいう)
リバーダンスは上半身を動かさずに下半身でリズムを刻むダンスですが、これは16世紀にイギリスからゲール語を禁止され、踊ることも禁止されたため、外から窓を通して見られた時に、上半身が動かないように、下半身だけで踊るようになったため。アイルランドの言葉と踊りを禁止するとは、イギリスもひどいことをするものですね。
アイリッシュダンスの伝統は、キリスト教以前からあったものです。
フレディの先祖も、ペルシャからインドへやってきた時、インドではゾロアスター教の布教とペルシャ語の使用を禁じられました。
二人とも同じような経験をした先祖を持っているので、共鳴するところがあったのか。

⭐︎アイルランドの歴史
8世紀末頃からノルマン人(ヴァイキング)の侵入が始まり、
1171年、アイルランドの豪族たちがイングランドのヘンリー2世の支配下に置かれます。
1541年、イングランドのヘンリー8世がアイルランド王を名乗り、本格的な支配が始まる。

1649年、クロムウェルがアイルランド占領のために侵攻し、大量の土地が没収され、多くの市民、老若男女が殺害されました。
一般市民の犠牲者は、病気や飢饉によるものを含めて20万人にのぼる。
生き残った政治犯は、1万2千人が西インド諸島を中心に奴隷として売られました。
クロムウェルの侵略は残忍極まりないものだったので、今でもアイルランドで最も嫌われているイギリス人になっています。
クロムウェルによりアイルランドは事実上の植民地となり、これ以後正式な移民が始まりました。

1801年、グレートブリテン王国とアイルランド王国が合併する。実質的にはイギリスによるアイルランド併合。

1840年代後半、ジャガイモの不作が数年続き、大飢饉が発生する。
この飢饉により、800万だった人口が2割も減り、生き残った人もアメリカへ移住するものが続出し、1911年には人口440万人にまで減少してしまい、現在に至るまでその人口は回復していません。
この時、イギリスは飢餓のアイルランドを助けるどころか、イギリスへの小麦の供出を強制し続けたので餓死者は100万人となり、アイルランド人のイギリスへの恨みは強く募ることとなった。
アイルランドではジャガイモが常食で、当時の小麦は高価なものであり、貧しい農民の口に入るようなものではなかった。

ジム・ハットンもジャガイモが好きなので、フレディがジムの誕生日に、10種類以上のジャガイモ料理を用意したという暖かいエピソードがあります。
フレディはイギリス植民地の支配層出身で、ジムはイギリスの支配を受けた国の出身。
お互いに生粋のイギリス人ではなかったので、ロンドンで生きるうえでは通じるものがあったのかもしれないが、世界はなんて複雑なのだろう。
やはり何かこの二人は偶然出会ったのではないような気がする。
ジムとフレディ2

1919年-1921年、アイルランド独立戦争
1922年、アイルランド自由国が成立、イギリスの自治領となる。ただし北部アルスターの6州は、北アイルランドとしてイギリスに留まる。これがアイルランド内戦へと発展する。

歴史的にイギリス(イングランド)への植民地支配の恨みが強く、今でも一部の住民の間では反英感情が強いとされます。
アイルランドは、イギリスから受けた虐殺や抑圧の歴史を持っていますが、イギリスに対して謝罪や賠償を求めることはなく、他国で告げ口外交をすることもなく、かといってイギリスとの友好を打ち出すわけでもありません。
ただイギリスと対等の関係であることを望んでいます。

アイルランドは、2011年の東日本大震災の時、自国が経済危機にあったにも関わらず、日本赤十字社に対して100万ユーロを寄付してくれました。
アイルランドの人は素朴で暖かく、鷹揚な人柄のようです。「何とかなるさ」と思っている。
イギリスは残酷で、アイルランド人を沢山殺しました。イギリス好きの人にとっては残念な歴史ですね。

⭐︎IRAについて
IRAとは、アイルランド共和軍のことであり、アイルランド独立戦争(対英テロ闘争)を行なってきたアイルランドの武装組織です。
IRAの目的は、アイルランド自由国成立後は、北部6州と南部26州(共和国)とを統一すること、つまり北アイルランドをイギリスから分離させて全アイルランドを統一することにあります。
IRA設立の背景には、17世紀にオリバー・クロムウェルが行なったアイルランド侵攻において、プロテスタントによるカトリック弾圧から続いてきた「アイルランド人に対する抑圧」があります。

1970年から1990年代にかけての「北アイルランド闘争」時代には、北アイルランドだけではなくイギリス本土でも爆弾テロが行われました。この頃のテロの記憶は私たちにも生々しく、映画にもなっています。
1994年にIRAは停戦を宣言。
1998年にベルファスト合意が成立、アイルランドは国民投票で、北アイルランドの領有権主張を放棄しました。
2000年、IRAは武装解除を表明。
2005年、IRAが武装闘争の終結を宣言しました。

しかし、ベルファスト合意に反対して散発的な行動を起こしているグループもあり、
2020年のブレグジットによって、アイルランドと北アイルランドの国境管理が再開されれば、過激なグループの闘争が再燃するのではないかという懸念もあるという。
ブレグジットとは、2019年12月12日にイギリスで行なわれた総選挙により決定した、イギリスがEUから離脱することを指す。
EUからの離脱について、ブライアン・メイは「世界が融合ではなく、分断に向かうのは悲しいことだ」と述べています。


⭐︎アイルランドの文学について
まずケルト神話として残る神話・英雄伝説を扱う口承文学が栄えました。
その後のアイルランドの文学にはアイルランド語で書かれたものと、英語で書かれたアングロ・アイリッシュ文学があります。
イギリスの植民地時代、連合王国時代にはアイルランド出身の小説家によって、多くの優れた小説が英語で書かれました。
この中には、『ガリヴァー旅行記』のジョナサン・スウィフト、『ドリアン・グレイの肖像』、『サロメ』のオスカー・ワイルドなどがいます。
ジェイムズ・ジョイスは『ユリシーズ』などの著作で、20世紀の欧米文学に大きな影響を与えました。
アイルランド出身のノーベル文学賞の受賞者として、W・B・イェーツ(1923年)、ジョージ・バーナード・ショー(1925年)、サミュエル・ベケット(1969年)、詩人のシェイマス・ヒーニー(1995年)がいます。
アイルランドには多くの優れた文学者がおり、世界に影響を与えています。

ケルトからの伝統を受け継ぎ、奥深い文化を生み出してきたアイルランド。
最近ではアイリッシュハープを弾く人も増えています。
アイルランドに行ってみたいなあ。



クイーンは産業ロックの王様!

カウンターカルチャーの象徴だったロックは、若者たちの反抗の音楽でしたが、1970年代後半になると、音楽業界のメインストリームとして商業的に成功することが期待されるようになりました。
ちょうどクイーンが成功を収めたのが、この1970年代後半です。
レコード会社の意向や、大衆の好みに合わせて、わかりやすいポップなメロディーと、歌い上げるボーカル、洗練されたインストゥルメンタルのアレンジ、厚みのあるコーラスなどを持つバンドがもてはやされる時代です。

ロック評論の渋谷陽一は、1970年代後半、ラジオ番組でこのような音楽を「産業ロック」と呼んで批判しました。
槍玉に挙がったのは、ジャーニー、フォリナー、スティクス、REOスピードワゴン、カンサス、ボストン、TOTOたちで、いずれも聴きやすいポップなロックです。
「産業ロック」というのは日本だけで通用する言葉ですが、この頃アメリカでは「コーポレイト・ロック(企業のロック)」という言葉が使われていました。80年代になると、バンドはさらに巨大化し「ダイナソーロック(恐竜ロック)」と呼ばれるようになりました。

もともとアメリカのポピュラー音楽の売り方として、まず市場調査をして大衆の好みを分析し、それに合わせた音楽を制作して販売するという方法があります。
1970年代後半のロックにおいて、同じ手法が使われたということができます。
つまり「産業ロック」とは、「売るために作られた音楽」のことです。
それらには反逆性もなく、不良性も新奇性もなく、万人に受け入れられやすい音楽です。

渋谷陽一は、「ひとつひとつのアヴァンギャルドな試みが積み重なって音楽は進んでいく。そんな努力がない限り、音楽は動脈硬化するだけであり、産業ロックとはその動脈硬化なのである」「ロックのこれまでの試行錯誤の歴史を全て御破算にしてしまうような不安を感じる」とまで言っています。

渋谷陽一の後続の音楽評論家たちは、エイジア、チープ・トリック、ラヴァーボーイ、ハート、サバイバー、ナイト・レンジャー、キッス、エアロスミスらも産業ロックであるとしました。
さらに現在はレッド・ツェッペリン、クイーン、ロッド・スチュワート、ビリー・ジョエル、ヴァン・ヘイレンなども批判されるに至っています。

やはりクイーンは産業ロックであると私も思います。
しかも産業ロックの王様です!
デビュー初期の頃はそうではなく、彼らは純粋に音楽を追求するミュージシャンでした。
しかし3枚目の「シアーハートアタック」から風向きが変わってきて、より聴きやすい音楽へ変わっていきます。
そして「ボヘミアンラプソディ」のヒット以後、決定的に産業ロックの権化となっていくのです。
王様

産業ロックの定番は「スタジアムロック」です。
スタジアムロックとは、何万人という観客を動員する大会場での派手なライブを行なう商業主義的なロックのこと。
クイーンが得意としたステージです。
スタジアムロックで人気のあったミュージシャンと、産業ロックは重なっています。
気になるのはクイーンの産業ロック王者時代と、フレディのハードゲイ時代が重なっていること。
この巨大な群衆からのエネルギーを受け止めるためには、それ相当の思い切った社会からの逸脱や、実際に筋肉を鍛えることも必要だったのではないか?
フレディは病気がわかってからは、ツアーをやめて、乱痴気騒ぎもやめています。
スタジアムロック

産業ロックが悪いとは言えませんが、ロック本来のカウンターカルチャーとしての役割は終わり、安心安全なお茶の間ロックになってしまったと言えるでしょう。
私はクイーンが生粋のミュージシャンであった2枚目までと、フレディが発病後に自分の使命に目覚めた後期の作品が好きです。

フレディは商業主義のロックも楽しんでプレイしていましたが、それは当時の若者として、自分たちがどこまで成功を追い求められるのか挑戦したいという気持ちもあったでしょう。
しかし商業主義に乗れずに悲劇を迎えた人もいました。
ニルヴァーナのカート・コバーンは、1991年のデビューアルバムで成功を収めましたが、もともとアンダーグラウンド志向だったため、自らの成功を喜んで受け入れることができず、うつ病やドラッグ依存となり、ついに1994年、ショットガンで頭部を撃ち抜いて自殺してしまいました。
カートコバーン
享年27才。「27クラブ」だ! このカーディガンは最近オークションに出され、
約3600万円で落札された。
遺書には「フレディ・マーキュリーのようにはなれない」とあった。
彼の死には他殺説もある。

フレディはアーティストとしての自分と、売れ続ける「フレディ・マーキュリー」との間に葛藤はなかったのだろうか?
彼は一人の人間として、巨大な恐竜「フレディ・マーキュリー」を乗りこなすことに苦心していた。
「朝目覚めた時に、自分がフレディ・マーキュリーじゃなかったらなあと思うことがある」と言っています。
やはり彼は「フレディ・マーキュリー」という仮面を被るグレート・プリテンダーだったのでは?
グレートプリテンだー

産業ロックや商業音楽の影で、多くの人がアルコールや薬物の過剰摂取、精神異常、自殺などに追い込まれていきました。
フレディと付き合いのあったバーバラは、「フレディのドラッグや乱痴気騒ぎは自殺行為だった」と言っています。
フレディの病気の原因は、単なる自己責任ではないところがあると、私は言いたい。
ミュージシャンはもともと繊細で過敏な性質なところへ、連日徹夜のレコーディングと、ツアーという過重な労働を強いられ、その見返りに多額のカネを与えられ、ドラッグとセックスで操られる。それに加えて常にマスコミの批判に晒され、バッシングされ、彼らは次第に壊れていく。
誰がフレディを殺したのか?
音楽産業の犠牲になったのか、
そもそもロックの反抗精神を抜き取るように音楽業界への働きかけがあったのか?
エイズが人工的に作られた生物兵器だという説の真偽は? (LGBTのカテゴリー参照)
・・・世界の闇は深い。


クイーンは中流階級出身の音楽

イギリスは階級社会だといわれます。
上流階級・中流階級・労働者階級がありますが、最近では7つの階級があるとも言われています。
上流階級には、ロイヤルファミリーを頂点として公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵があります。
上流階級とは、世襲の貴族のことなので、たとえサーの称号を与えられたとしても、上流になることはありません。
サーの称号を持つ人に、ショーン・コネリーやミック・ジャガー、エルトン・ジョンなどがいます。

ブライアン・メイは2005年に大英帝国勲章を受けており、第三等のコマンダーCBEの称号を持っています。
第三等はサーを名乗ることはできません。
このような称号は一代限りのものであり、世襲ではないため、上流階級になることはありません。
クイーンは大変な収入を得て優雅な暮らしをしていたため、上流階級と目されることもありましたが、彼らはあくまで中流です。
ブライアン

労働者階級というと、日本ではブルーカラーを思い浮かべますが、イギリスでは日本と違い、オフィスで働くホワイトカラーにも労働者階級がいます。人口のうち半分以上を労働者階級が占めています。
ビートルズは労働者階級出身でした。
パンクも労働者階級出身で、ロックは労働者階級のものというイメージがありました。
しかし中流階級出身のミュージシャンも多く、ミック・ジャガーは祖父と父が教師で、兄弟も教師になりました。彼自身も成績が良く、官吏になるための勉強をしていました。
ストーンズではブライアン・ジョーンズもミドルクラスで、母親はピアノ教師、家庭内で音楽会を開くような家でした。他の3人は労働者階級出身です。

ピンクフロイドのシド・バレットやロジャー・ウォータースもミドルクラスです。プログレッシブ・ロックは中流階級が多い。
ジェネシスの初期のメンバーは全員がチャーターハウスというパブリックの名門校の出身です。

クイーンはもちろん中流階級出身ですが、フレディは植民地出身なのでちょっとわかりにくい。
フレディの父親はザンジバルで、イギリス政府の会計官をしていたというので、公務員であり、中流階級ですね。
高級官僚だったという説もあるのですが、たとえそうだとしても上流階級ではありません。
最近では「上級国民」という言葉も、ネットでは散見されますが、これは 政治家や役人などの権力者、富裕層などの特権階級を指しているようです。フレディのバルサラ家は、ザンジバルでは上層階級に位置し、上級国民だったと言えるでしょう。
しかしロンドンに移住した時は財産も持ち出せず、ご両親は苦労したことと思います。
クイーン ワークス

もともとロックは「不良の音楽」だと思われていて、中流のお坊ちゃんたちは、わざわざそれを隠すこともあったという。
フレディもアッパーミドルだったのに、やたらと「バッドガイ」になりたがった。
不良になりたくても、結局はなりきれなかったんじゃないの、フレディは?
フレディのいいところは、階級にこだわらずに、広く色々な人と付き合っていたこと。
メアリーもジム・ハットンも労働者階級です。

フレディは孤独だったから、不良になってみたかった。
フレディが亡くなる10日前のインタビューで、なおも孤独を訴えているので驚きました。
最後の数年間はガーデンロッジで落ち着いて暮らしていたと思っていたのに。
「実際、僕の抱えている孤独は一番がまんできない類のものだ。孤独は、自分で部屋に閉じ籠もるっていうものだけじゃない。人でいっぱいの場所にいてもなお、一人ぼっちの男になることもあるのさ。なぜって、その理由は、誰とも本当に馴染むことができないからさ。」 (『クロスビート』1992年1月号に掲載された「フレディ・マーキュリー、死の10日ほど前に行われたと思われる最後のインタビュー」より)

上流階級の人は、音楽家を雇って演奏させたり作曲させることはあっても、自分がミュージシャンになることはありません。
彼らは「音楽家に身を落とすことはない」と言います。
音楽家って、身を落とすことなのか〜

そんなことを言っても人間は皆同じ、本当は階級なんてないと思います。
階級なんて迷妄ですよ。


カウンターカルチャーからメインカルチャーへ

19世紀までのヨーロッパで形成された文化をハイカルチャーといいます。
クラシック音楽、バレエ、オペラ、古典絵画、人文科学、社会科学、自然科学(天文学など)、応用工学(歯学など)、総合科学などです。
ブライアンはハイカルチャーを学んだので、ポップカルチャーのロックへ進むことを、父親が反対したそうです。
ロジャーもハイカルチャーを学んでいます。
フレディはクラシック音楽やバレエ、オペラを好んだので、ハイカルチャー趣味でした。これは彼の家族や親戚には医者や弁護士が多く、バレエやオペラが好きだったからだそうです。

ロックはポップカルチャー(大衆文化)ですが、はじめはハイカルチャーに対するカウンターカルチャー(対抗文化)として登場しました。
しかし今や世界中で受けいられる音楽になっているので、メインカルチャーになっています。
そうするとまたロックに対抗する文化が生まれてくる可能性があります。

カウンターカルチャーとはサブカルチャーであり、これまでにロマン主義(1790〜1840)やボヘミアン主義(1850〜1910)などがありましたが、1960年代のアメリカのカウンターカルチャーはグローバル化しており、ヒッピーのサブカルチャーと1970年代・1980年代の多様化したパンク・サブカルチャーと関連しています。

アメリカのカウンターカルチャーは、文化革命運動と言えるもので、移民国家の中で多様性の容認を求めるものでした。
「多様性の容認」の中には、公民権運動、ヒッピー運動、市民運動、女性運動、ゲイ解放運動、環境保全運動などが含まれており、これらの多様性の容認が、意識の拡大につながるとされていました。
こうした文化革命を背景として生まれたポップカルチャーの音楽的象徴がロックなのです!

カウンターカルチャーの主な人物として、次のような人たちがいます。
ボブ・ディラン
ジェーン・フォンダ (ブライアンが好きな女優)
ジミ・ヘンドリックス (フレディが好きなギタリスト)
ジョン・レノンとオノ・ヨーコ
ジム・モリソン
グラハム・ナッシュ
ジャック・ニコルソン
アンディ・ウォーホール
ニール・ヤング
大島渚
横尾忠則

クイーンもカウンターカルチャーの影響を受けていたことがわかります。
カウンターカルチャーの中心となるヒッピームーブメントでは、保守的なキリスト教文明に批判的であり、自然の中での共同体を求めたり、東洋の哲学や宗教を学び、世界の聖地へ旅をしました。
ロックや野外フェス、男女平等、性解放、大麻などのドラッグ解禁、各種差別の廃止、有機野菜の促進などが行なわれました。
ベトナム戦争中だったので、徴兵や死を目の当たりにしたアメリカの若者にとっては、この運動は生命に直結する切実なものだったと思われます。
日本にもヒッピー運動は伝わり、私も新宿で長髪の日本人ヒッピーがギターを手に歌っているのを目撃しましたが、日本にとって反戦運動はそれほど切羽詰まったものではなかったように思います。

社会の主流派を嫌って各地を放浪し、自然体で生きようとした優しいヒッピーたちは、やがて大量消費社会の中で見失われて行き、ヒッピーは敗北したと言われました。しかしヒッピーの考え方は健在です。
実社会のなかで、ヒッピーが求めたユートピアが訪れることはありませんでしたが、その憧れは21世紀において、サブカルチャーにとどまらず、欧米の主流文化の中で、より一般化されたものとなりました。
アップルをはじめとしたアメリカ西海岸のコンピューター文化、ロックや美術、文学、舞踏、アニメといった大衆文化、ヴィーガニズム、菜食主義などより自然志向の食文化、東洋的な精神への関心は高まりつづけています。

まとめると、フレディはポップカルチャーを中心にしつつ、ハイカルチャーのバレエやオペラを愛好した。
ロックはハイカルチャーに対するカウンターカルチャーとして生まれたが、今や社会的に広く受け入れられるメインカルチャーになっている、ということですね。
どこかに偏らずに横断的に広く受容されたロックが、時代によりまた変容していくところが面白いですね。
それにしてもカウンターカルチャー(対抗文化)だったロックが、大衆化して牙を抜かれてしまったので、また新たな対抗文化が出てくると面白いのですが。

ハイカルチャーのオペラ歌手と共演!
オペラと共演

ハイカルチャーのバレエと共演
バレエと

カウンターカルチャーのロックだよ!
カウンターカルチャー

ポッブスシンガーです
ポップスシンガー

今やメインカルチャーなのだ!
黄色いメインカルチャー
フレディの七変化ですね!








フレディの「ハードゲイ」時代について

ハードゲイについて。書くのはむずかしい。
よくわからないから。
それでもちょっと書いてみる。

男性同性愛については、まったく問題ないと思うし、ぜんぜん気にならない。
古代ギリシャでは、市民の義務として行なわれていたわけだし、世界史の至る所で、日本でも歴史上連綿と行われてきた当たり前の行為である。
同性同士で愛し合うのは、それはそれでオメデタイことだし、末長く幸せになってほしい。
けれど、ハードゲイというのはちょっと違うようだ。

ハードゲイは和製英語なので、世界では通じない言葉だ。
海外では「レザー サブカルチャー」と呼ばれている文化様式のこと。
もとは1970年代後半から、ニューヨークで起こったゲイのムーブメントで、
筋肉を鍛えた肉体を誇り、SMなど過激な表現を行ない、旧来の硬派な男性性の言動をとる人たちがいた。
とくに黒い革に、銀色の鎖や鋲を付けた服装を好んだ。

フレディはアメリカで、この「レザー サブカルチャー」の洗礼をもろに受け、感化されたわけですね。
クイーンのメンバーが西海岸を好んだのに対し、フレディだけがニューヨークに住まいを持っていた。
レザーフレディ

アメリカでは、黒い革の服だけでなく、ブルージーンズに白いTシャツやタンクトップといった、黒・白・青の三色が好まれた。
それに軍隊仕様の個人認識票やブーツ、鍵や錠前型のアクセサリー、モヒカンやスキンヘッドの髪型、タトゥーなどのファッションが世界の若者へ広がっていった。
つまり、フレディのライブエイドの服装も、じつはハードゲイだったのである!
私はあのジーンズとタンクトップは、アフリカ飢餓のチャリティーなので、なるべく質素な衣装にしたのかと思っていたのだが、そんなものではなかったのだ!
フレディは自分のゲイという趣味嗜好、そして生き方を、芸風にまで浸透させていた。(これってシャレ?)
ライブエイドのゲイ

ハードゲイは、第二次世界大戦後のアメリカで、社会に迎合しない反抗的な男性性のあり方に共感する同性愛者たちが、ファッションや行動様式を通じて、同性愛者のアイデンティティーとして確立したもの。
これが『Leather subculture(レザー・サブカルチャー)』と呼ばれている。
フレディも同じ戦後生まれの世代で、社会から差別を受けた経験があり、社会に対する反発意識で共感したのだろう。
レザーのステージ
でもフレディの場合、黒いレザーの上下で決めていても、足元にはバレエシューズを履いていたりして、ハイカルチャーとの混交があって面白い。やはりハードゲイには成りきれなかったのだろうか?

日本にはハードゲイは根付いていない。
もともと日本には男性同性愛を禁忌とするところはなかったので、反抗する必要もなかったのかもしれない。
フレディは、ゾロアスター教で同性愛が禁じられているため、ずいぶん苦しんだようだが、ゾロアスター教の聖典アヴェスターは開祖ゾロアスターが書いたものではなく、アケメネス朝期に大部分が失われ、ササン朝期に復元されたものなので、後世のかなりの加筆訂正があると思われる。根本的な教義以外のところは、あまり気にしなくていいのだ。

アメリカのハードゲイは、あまりに過激になってしまい、問題もあった。
SMについては、私も詳らかではないが、フレディが1982年頃に付き合っていたビル・リードはフレディに暴力をふるい、フレディに外傷を負わせた。これはあまりに過激な行為だったのではないか?
そして男性同性愛は、両者の男性ホルモン(テストステロン)が高く、あまりに積極的になるので、交渉相手の人数が増えて行く。アメリカのアンケートで、これまでに付き合った人数が1000人以上いるというが27パーセントもいた。
これはどうみても「Too Much Love」では?
古代ギリシャの少年を教育する同性愛からは、ずいぶんかけ離れていると思うので、賛同できない。

ハードゲイの人たちは群れているので、きっと心が寂しい人たち
映画「ボヘミアンラプソディ」で、フレディがミュンヘンで飲み過ぎて倒れているところへメアリーが来て、それからポール・プレンターがどやどやと若者たちを連れて来るシーンがあった。あの皮ジャンの若者たちがハードゲイの連中だ。
ポール・プレンターも北アイルランドでマイノリティーのカトリックであり、カトリックで禁じられたゲイであったことから、ハードゲイにのめり込むことになったのではないか。

フレディも17才まで過ごしたアフリカとインドを捨て、ロンドンで「故郷喪失者」となり、世界を旅して仕事をするボヘミアンとなったため、心の中には常に寂しさと虚しさがあり、どこかに帰属したいという気持ちが強かったのだろう。
そこで出会ったハードゲイの世界に、たちまち魅了されてしまったと考えられる。
故郷喪失者にとって、最後のよりどころとなるのは自分の身体だ。
身体を鍛えて頑丈にしようとするのも当然だろう。
信じられるものは身体感覚だけという極端な捉え方もあり得る。

また、自分が生育した家庭が機能不全の場合、どこか他に父親や母親を求めてさまよい、新興宗教などに入ってしまうことがある。
心が寂しいと、誤って宗教団体を家族と同様に感じてしまうのだ。
フレディもハードゲイの仲間たちと一緒にいると、家族と同じような安心が得られたのかもしれない。
(フレディの家族は敬虔なゾロアスター教徒なので、同性愛は認められない)

1970年代のゲイ解放運動が生んだ産物として、おびただしい数のゲイ専用サウナ(バスハウス)やクラブがあった。
当時流行していた主張に、古い性行動の限界を突破することは、ひとつの政治的行為であり、抑圧された社会的規範から自由になったという証明なのだというものがある。
こうした主張に便乗した商売が隆盛し、性を商品化した結果、不特定多数と活発に交際していた彼らの間では、性感染症が激増していった。そこに登場したのがエイズである。
自由を謳歌していたフレディも、これには太刀打ちができなかった。

男性同性愛というと、普通はオネエとかオカマを想像してしまうと思うが、それとは違うハードゲイという世界があるのだ。
体を鍛えたマッチョでヒゲを蓄えた男同士の恋愛というか関係は、想像するのも難しいというか、想像不能である。
(ヒゲも強い男性性の象徴)
フレディはもともと線が細くて、女らしい仕草もあったので、ますます不可解である。
人間て複雑ですね。
フレディは太陽がノーアスペクトなので、付き合う相手によって生き方や外見も変わっていく。(占星術解読の項目を参照して下さい)
ハードゲイに憧れて、自分も逞しくなろうとしたが、やはり成りきれなかったフレディは、「グレート プリテンダー」でヒゲを剃り落した。
それからオペラ歌手と共演し、若い頃から好きだったハイカルチャーの世界との融合をはかる。
私にはその方が本来のフレディと思える。
自身の病気を知り、人生の限界を知った時、本来の自分のあり方に目覚めたのだ。

フレディの太陽ノーアスペクトは、父親との関係が薄いことも表しており、父親のような強い男性に憧れたという面がある。
父親のような男性に頼りたかったフレディは、男性の恋人にもたれかかっている幸せそうな写真がある。
太陽ノーアスペクトの男性は、自分がどのような男性になれば良いかわからないという面もある。
フレディが男性同性愛者として、どのように生きるのかアイデンティティーを確立するまでは大変だっただろう。

グレートブリテンダーの歌詞では、
「今にも消えそうな心に、宝飾の王冠を乗せて
煌びやかに見せよう
君がまだ、僕のそばにいると、自分に思い込ませて」
と言っているので、ハードゲイの世界では本当に愛する人を見つけられなかったのだろう。

そして出会ったジム・ハットンは、やたらと色々な人と付き合うようなハードゲイではなかった。
やはりフレディにはハードゲイは似合わない、と私は思うよ。

ちなみに、ハードゲイのコスチュームやアクセサリーは、ヘヴィメタルやパンクのファッションにも似ている。
しかしヘヴィメタやパンクのファッションは、アメリカよりもヨーロッパの軍服などに近いものが多く、ヨーロッパ伝統の馬具や拷問道具などから来ているため、「レザー サブカルチャー」ではないとされる。

フレディのレザージャケットは、ハードゲイの黒から、他の色が配色されるようになり、
フレディの皮ジャン

さらにバックルジャケットへと進化してゆく。
バックルジャケット

フレディはレザージャケットの下には、タイツのような伸縮性のある薄手のボトムスを着用していた。(モントルーの旧マウンテンスタジオで確認した)
これはバレエ愛好の時代を思わせるものであり、全くハードゲイではないので、やはりフレディは真のハードゲイではなく、様々な文化様式の混合だと思われる。
ロックとポップと「レザー サブカルチャー」とハイカルチャーのハイブリッドなのかもね。

メルクリウス(マーキュリー)の羽つき帽子

西洋絵画には、メルクリウス(マーキュリー)を描いたものがあります。
メルクリウスは、羽がついた帽子を被っています。
私はメルクリウスの絵を見ると、わ〜いフレディだ ! と思ってしまうビョーキにかかっています。

これは子供のメルクリウス(マーキュリー) レノルズ作。
子供のメルクリウス

フレディは「マーキュリースーツ」という衣裳を作るほど、マーキュリーにはこだわっていたので、
帽子にも羽をつけたりしていました。
これはキラークイーンの帽子
キラークイーンの帽子

京都の平安神宮で撮ったもの。
この帽子はキラークイーンと同じものでしょうか?
これはいかにもマーキュリーらしい。
平安神宮の写真

この帽子は女性用のようです。メアリーの?
日除け帽のようで、リボンと飾りがついています。
このようにメンバーの中で、一人だけ帽子を被っていることがあります。
日除け帽子

これは珍しい。本当にフレディですか?
60年代風ですかね。
60年代風フレディ

他にも、40歳の誕生日パーティーで被っていた白いポンポンのついた帽子や、南米で被っていた大きなツバの帽子など、やはりフレディは被り物が好きなんだと思います。
良く見ると、野球帽やポリスの帽子らしきもの、ツノ付き帽子、レザーにチェーンの付いたものなど、本当に色々と被っています。
極め付きは例の「王冠」でしょう!

メルクリウス(マーキュリー)の帽子はペタソスといって、羽がついているので速さの象徴です。
これがあれば高く飛ぶことができます。
ペタソスは古代ギリシャでは羊毛で作られていましたが、次第に金属製の兜となり、「羽兜」はヘルメットと呼ばれるようになりました。
ヘルメットって、ヘルメスから来ているんですね。
フレディは帽子を被って、自由に飛ぼうとしていたのではないでしょうか?





「カルティエ 時の結晶」展

フレディが好きだったカルティエ
六本木の国立新美術館で展覧会が開かれているので、行ってきました。
カルティエは1847年創業の、フランスの高級宝飾ブランドですが、
今回は1970年以降の新しいデザインが公開されています。

カルティエのネックレス
優美で気品のあるデザインと、精緻な細工に圧倒されますが、
何よりも巨大なオパールやサファイヤ、エメラルド、トパーズなどに呆然となりました。
ヨーロッパの王族を相手に作られた、これらの宝飾品は、値段など付けようがないでしょう。
いくら「倒れるまで買え!」がスローガンのフレディでも、これはちょっと・・・

カルティエのティアラ
ダイヤのティアラ。
繊細なティアラは、まるで羽のよう!

フレディは親しい人にはよくカルティエの小物をプレゼントしていました。
私はカルティエなんて、ひとつも持っていません!
全くぜんぜん持っていませんよ! 😭涙


小石川後楽園

小石川後楽園に行ってきました。
フレディが1986年にジム・ハットンと一緒に訪れた日本庭園です。
東京には由緒ある名園がいくつもあり、意外と緑が多い街なのです。
私は東京生まれなのに、まだ行ったことのない場所が沢山あり、最近になって浜離宮庭園や旧古河庭園なども行ってきました。
いずれもすばらしい庭園ですが、後楽園に行くと、ちょうど紅葉の盛りだったので、あまりの美しさに幻惑されました。

小石川後楽園は、1600年代の江戸時代初期に水戸徳川家の江戸上屋敷に造られた日本庭園で、国の特別史跡及び特別名勝に指定された都立庭園です。

(ここでちょっとBSフジの、クイーン来日記念スペシャルを見ていました。ふう)

小石川後楽園
庭園の中央に池があります。
この池を見て、フレディは自宅にも池を作ったのですね。
それが方角の悪い凶相になってしまいました。
詳しくは「フレディは鬼門に凶相の池を作ってしまった」をご覧ください。

フレディ後楽園
これはライトが当たっていて暗い時間帯のようですが?
右にいるのはジョー・ファネリかな?


後楽園3
美しい紅葉が水に映えます。
この赤いモミジというのは、実は日本とカナダにしかないそうです。
フレディがここへ来たのは9月の半袖でしたから、紅葉は見ていません。
この美しい紅葉を見せてあげたかったなあ。
きっと喜んだと思いますよ!

後楽園4
隣は東京ドームです。折しも今日はKISSの最終公演だ!
水道橋駅から5分ですが、水道橋は総武線の各駅停車しか止まりません。
ところでこの池の真ん中には島があり、弁財天が祀られています。
弁財天は芸能や音楽の神様なので、参拝するとご利益があるでしょう。
しかし弁天様に男女のカップルで来ると、別れることになるという迷信があります。
男男のカップルならば関係ないかな?

後楽園5
築山があり、どこの山の中かと思うぐらい。
中国からの観光客も多かった。
ぜひ後楽園を訪れてください!



西洋占星術でフレディを解読

イギリスでは、西洋占星術は日本よりも盛んです。
占星術の本場といっても良いでしょう。
「英国占星術協会」があり、ロンドンには占星術の専門店もあります。

フレディは占星術について、インタビューでは「信じていない」と言っていました。
(インタビューの字幕では「天文学」となっていましたが、正しくは Astrology 占星術もしくは占星学です。)

ところが実際には、自分の太陽星座「おとめ座」のルーラー(支配星)である水星を、自分の終生の名前にしたのですから、信じていないわけはないでしょう。
水星=マーキュリーです。

フレディは当初、名前をマーキュリーにする前は、プルートー(冥王星)にしようかと思っていたそうです。
プルートーはマーキュリーよりも絶大なパワーを持っています。
占星術に対する知識がなかったとは思えません。
もしプルートーにしていたら、フレディはもっと過激で、もっと破滅的な人生を歩んだことでしょう。

ちなみに、冥王星は現在、惑星から格下げされていますが、ブライアンは天文学者として、冥王星は惑星の方が相応しいと述べています。私も同意します。ブライアン、ありがとう!

ピーター・ヒンスの本によると、フレディはツアー中に、新聞に載っている星占いを見て、自分の星座の欄を読み上げたり、他の人の星座の欄も読んであげたりしていたそうです。
これは占星術ではなくて、星占いですから、あまり詳しい知識はなかったと思われます。

フレディの占星術チャートをもとに、主なところを解析します。
フレディの生まれ時間がわからないので、細かいことはわかりません。
(ネットに何種類かの生まれ時間が出ていますが、いずれもあまり信頼できないので、時間不明とします)

フレディの占星術解読
水のエレメントが無い
 宇宙は「火地風水」という4つのエレメント(元素)から成り立っています。
誰でもこの4つの組み合わせを持っているのですが、中にはどれかのエレメントが欠けている人がいます。
フレディは「水」が欠乏しています。
水は、人間の感覚、感情、共感などを表すので、水がない人は、他人の感情に共感することが苦手です。
自分の感情がないわけではなく、自分の感情は豊富なのですが、他人の感情に同化することはありません。
これは家族や親しい人から見ると、冷たい人と思われるかもしれません。

本人は、無意識に水の欠乏を感じます。
すると足りないものを補充しようとして、とても水が豊富な人のような行動をとることがあります。
自分が持っていないものを他人が持っていることを感じると、それが危機意識となり、生存本能に直結します。
ときに強い劣等感となり、それを克服するために必死に頑張ることになります。
それでやりすぎ感が目立つこともありますが、どこかピントがずれていると思われたりします。

人は誰でも、自分にないものを求めます。
フレディはいつも強く愛を求め、愛の歌を歌いました。
すごく水が豊富な人のように見えて、じつは自分に足りないものを求めていたのですね。

愛情や共感への強い必要性を覚えるので、多くの人と感情的なつながりを求め、
大きな理想や博愛精神を要する仕事を望みます。
これがスタジアムロックになったのですね。

太陽ノーアスペクト
フレディの太陽にはアスペクト(他の天体との角度)がありません。
孤立した太陽です。
太陽は自分の自我、人生を表しますが、他の天体との関係を持っていないと、自分の表現方法がわかりません。
フレディは金星が強く、品位の高い(ディグニティ)金星が、火星・木星とコンジャンクションしているため、金星を使って仕事をし、自己表現を行なっていました。
金星は音楽、美術、金銭、快楽などを表しています。
しかし太陽には出口がないので、金星との間に隔たりがあり、本当の自分と、金星の自分との間にズレを感じています。

また、太陽を押し出していく対象をもたないような形なので、方向性が自分に向かい、自分自身をテーマにする人もいます。
つまり、自分を必要以上に押し出して、目立とうとするのです。その場合は周囲から浮いた自己主張の表現になります。

太陽にアスペクトがないと、人の常識的な考えがわからず、人の感情もよく理解できなくなります。
自信が持てない人もいます。
流れに乗ることによって人生が開けますが、付き合う相手によって、自分も変わります。
相手の望んでいることを言ってあげたりして、対等な人間関係が築けなくなりがちです。
人から利用されたり、軽く扱われたりすることも。
周りの人に振り回されるので、目的が変わりやすい。

太陽ノーアスペクトは、孤高の生き方に憧れます。
またその反面、過剰なほどに自己を押し出すことがあります。
太陽は主体性を表すので、過剰になると暴走します。
0か100かの生き方になります。
他人と状況に影響されやすいので、思わぬ展開から大ブレイクすることがあります。
周りから担ぎ出されます。
どこからでも人生を再生できます。
恥ずかしいぐらい自己主張が派手になる人もいます。

また太陽ノーアスペクトは、父親との関係が薄いことも表し、
自分の男性性をうまく発揮できないので、ゲイになりやすいとも言われます。

太陽のサビアンシンボル
太陽おとめ座13度 「政治運動を制圧する強い手

この度数は、カリスマ的な指導力や、支配力、リーダーの素質があります。
強い意志で努力する人、精神的に強い人です。
人を惹きつける話し方で、人から信頼され、頼りにされます。
管理能力に優れ、しっかりしています。

カオス(混沌)をコスモス(秩序)に変える力を持っています。
ざわざわした集団や、反抗的な人々に対して、強くけん制し、落ち着かせることができます。
人々に影響を与えるような、類まれな指導力を持っています。

これって、フレディがスタジアムで「エ〜オ」している時の姿、そのままですよね。
なんと占星術の通りになっていたとは。

★次に人生の流れを見ます。
1964年 
出生の太陽と、経過の冥王星の合。 65年に出生の太陽と、経過の天王星の合。
強制的な変化、破壊的なことが起こります。
この時、ザンジバルで革命が起こり、フレディ一家は難民となり、ロンドンへ移住します。

1975年 
出生の海王星に、進行の太陽と、経過の冥王星が合。
クイーン2や、シアーハートアタック、オペラ座の夜の頃です。
フレディは神話や宗教の世界、神秘的なことや芸術などにのめりこんでいます。
この時期に出会う人を美化し、神格化します。

1976年 
出生の太陽と、進行の冥王星の合。進行の太陽と、経過の冥王星の合。
決定的な変化が起こります。驚異的な成功をもたらします。
華麗なるレースの頃で、突然タイツ姿になります。
7年 世界に捧ぐ、78年 ジャズの頃にレザースタイルとなる。

1979年 
出生の火星と、経過の冥王星の合。
生命力と性欲が最大となる。大胆な行動に出る。仕事に熱中する。
レザースタイルで火星を目指すロケットになり、空が赤く燃えていた頃。
ドントストップミーナウのことね。
ただし冥王星は未知のウィルスも含み、この頃HIVに感染したと思われる。
80年、ザ・ゲームでついにヒゲスタイルになる。

1983年 
出生の金星と経過の冥王星の合
恋人を深く愛する。83年というと、ウィニー・キルヒベルガーのことか。
82年 ホットスペース、84年 ワークスで、恋愛街道をひた走っていた頃。
またこの頃は、出生の太陽と、進行の土星の合や、出生の金星と、経過の土星の合もあり、
失恋したり、孤独を感じていた。
85年に「Mr.バッドガイ」
85年〜88年には最もマッチョとなる。
85年からガーデンロッジに住み始める。

1987年頃 
出生の月と、経過の天王星の合。
(出生時間不明なので、月の度数を特定できない)
生活や健康に大きな変化がある。この時エイズ発症。
89年 ザ・ミラクル。

1991年  
「イニュエンドウ」
11月24日 出生の太陽と経過の木星の合。出生の金星・木星と、進行の太陽の合。
これは大変幸運な星の組み合わせで、愛情やお金に恵まれます。
結婚適齢期の人は結婚します。または不動産などを手に入れます。
フレディはとても幸せな満ち足りた気持ちの中で、この世を去りました。
それまでの闘病では苦痛なこともあったけれど、死によって肉体から開放されました。
フレディにとっては、死は喜ばしい祝福でした!
星を読むことによって、それがわかって良かったです!
おめでとうフレディ! 

〔まとめ〕
こうしてみると、フレディは星の影響を強く受けていて、星の通りに生きた、じつに素直な人だったことがわかります。
普通の人は、家族や仕事の人間関係のしがらみがあり、あまり自由には生きられないものですが、フレディは徹底したリベラリストで個人の自由に生きることができたので、星の影響もまた鮮明に現れることになったのです。
とくに1964年〜65年の、ザンジバル革命による移住や、
1975年〜76年の、クイーンの驚異的な成功、
1979年の、過剰な行動力による病気感染、
1987年の病気発症、
1991年の幸せな大往生が、あまりに鮮明に現れているので驚きました。
フレディは最大限に星を使役し、星を生ききったのだと思います。

フレディ27歳
27才のフレディ。この頃が一番好き。未来への希望に溢れているから。


       
       




       
       
       


正負の法則とは

美輪明宏が提唱する「正負の法則」というのがあります。
「正負の法則」とは、簡単に言うと「いいことがあれば悪いことが起こる。この世の中はそのような陰と陽のバランスで成り立っている」というものです。
たとえば「昼と夜」「北と南」「男と女」「光と影」のように、雨の日があれば必ず晴れの日がある、と美輪は言います。

光が強ければ、影もまた深くなります。
大成功したスターは、その後に数奇な運命をたどることがあります。
どんな人でも人生は良いことと悪いことがプラスマイナス・ゼロになっていると言うのです。
確かにフレディはそれに当てはまっているかもしれません。
しかし地震や戦争に巻き込まれるなど、自分の力ではどうすることもできないこともあり、全ての人が当てはまっているとは思えない場合があります。

良いことと悪いことというのは、たとえば一枚の紙の表と裏のようなもので、本来は同じものの両側なのではないでしょうか?
一人の人間を前から見れば顔が見えるし、後ろから見れば背中が見えますが、どちらが良いとか悪いということはありません。

良いことと悪い事というのは、捉え方ではないでしょうか?
たとえば駐車違反や一時停止違反で警察に捕まった時、それを悪いことと思わないで、「これはもっと大きな事故にならないように、運転に気をつけろということだな」と受け取れば、それは良いことになるのです。

フレディも病気になるまでは、刺激を求めて奔放な生活をしていましたが、病気がわかってからはガーデンロッジで落ち着いた生活を送ることができるようになって良かったというようなことを言っていました。
病気というのは、しばしば転機となり、気づきを与えてくれます。

映画監督の大林宣彦も、がんになってから毎日あらゆることに生命の輝きを見ることができるようになったと言っています。
たとえ悪いことが起きたとしても、それを良い意味にとらえていけば、人生には悪いことというのは無くなり、良いことだけになります。
毎日が良いことの連続になります。

フレディも早く亡くなったことは残念でしたが、そのことによって人々の心に強く印象付けられ、きっと意味があることだったのでしょう。
フレディ対面

ジョン・レノンの39回目の命日に。

フレディは鬼門に凶相の池を作ってしまった

フレディが住んでいたガーデンロッジの写真がある。
これはかなり上方から撮影していますが、どうやって撮ったのか? ドローンかな?
ガーデンロッジ上から

私は実際にガーデンロッジの前まで行ったことがあるのですが、
まず初めに気がついたのは、この家が北側を向いて建っていることでした。
私たち中国〜日本系の考え方では、家というのは北を背にして南向きに建てるのが基本です。
それがガーデンロッジは逆に南を背にして北を向いており、従って雰囲気が暗いのです。
南イタリアなど、陽光が強すぎる地域では、太陽光を避けることもあるでしょうけれど、ここは北緯51度のロンドンです。
1月の日の出から日没までは、8時間程度しかありません。
これが第1の謎です。

第2の謎は、画面左下に黒く見える大きな池です。
この池を見ると、私は今でもぞっとします。
なぜこんなところに池を作ったのか?
正確に測ったわけではありませんが、この池は建物から見て東北の方角にあります。
東北は鬼門と言われ、清浄に保たなければならない場所です。
そもそも個人宅の庭に池を作るものではないと言われています。
池を作ると湿気が多くなり、虫が発生したり、澱んだりすると、住人の健康に悪影響を与えます。
とくに鬼門にある池は大変な凶相であるとされています。

敵を滅ぼすときは、黙って相手の鬼門に池を掘れ、と言われるぐらいです。
フレディは自ら墓穴を掘ってしまいました。

鬼門に池があると、住人が病気になりやすく、経済的にも良くない影響があり、家運が衰退するとされています。
皇室に仕えていた陰陽師の土御門派では、鬼門に池があると次のようなことがあると伝承されています。

夭寿(若くして死ぬという意味)、変死、破財、損失、不忠、不孝、縁談の破れ、女難、剣難、奴僕育たず、出奔、乱心、淋症、痔漏、疳症、足腰の病(洛地準則)

なんと、鬼門に池があると、その家の主人が若くして死ぬか、変死するというのです!

この池は1986年の4月〜10月にかけて作られましたが、フレディのエイズが判明したのは1987年の春でした。
だから、もしこの池さえ作らなければ、フレディはもっと長く生きたのにと思わずにはいられないのです。
池を作りたいと思ったのはフレディ本人ですから、他の誰のせいでもありません。
でもフレディか、他の誰かが「鬼門の池」の知識を持っていたら、こんなことにはならなかったのに!

庭に池を作るならば、東南にするか、建物から50メートル離すか、小さい池にした方が良いそうなのですが、
この池は余りにも大きくて、全長10メートルもあるのです。
どうしても池の影響から逃れるわけにはいきません。

フレディは自ら庭の東北に池を作り、命を縮めてしまった。
でもそれは、フレディが早く魂の故郷へ帰る必要があったからなのだろうか?
早死にフレディ

フレディは池を作った時に「充実した人生を送ってきたから、もし明日死んだとしても悔いはないよ。探していた居場所をようやく得たというところかな。自宅のすばらしい日本庭園に・・・最近鯉を入れたのさ。すごく気に入っている」と言っていました。
自宅に楽園を作り上げたフレディですが、それは天国へ通じていたのかもしれません。
フレディの日本庭園
フレディ邸の日本庭園

中村哲医師追悼

2019年12月4日に、アフガニスタンで灌漑事業や医療活動に取り組んできた、中村哲医師が殺害されました。
中村哲さんはアフガニスタンの和平のためには、貧困の解決が不可欠だとし、アフガニスタンの最も貧しい人たちのために尽くし、半生を捧げてきました。
彼は日本の用水路の技術を研究し、アフガニスタンで2003年から工事を指揮し、7年がかりで25キロに及ぶ荒地に用水路を開きました。
用水路が通ったことで農地がよみがえり、難民や兵士になるしかなかった住民らが農業で生活できるようになり、戦乱と干ばつに苦しむ現地の状況は、劇的に改善されてきました。
用水路で潤った土地は約16500ヘクタール。約60万人が恩恵を受けています。
国際協力機構が2015年に行なった調査では、住民の8割以上が「治安が良くなった」と回答しました。

中村医師は、アフガニスタン東部で農業支援などに取り組むNGO「ペシャワール会」の代表でした。
私は10数年前からペシャワール会の会員で、何もお手伝いはできないけれど、毎年会費だけは払い、会報を受け取っています。
中村医師殺害の記事を新聞で読み、私にとってはジョン・レノン殺害よりも衝撃だったので、涙でかすんで文字が読めなくなりました。
中村医師の崇高な精神と、勇気ある実践に敬意を表し、哀悼の意を捧げたいと思います。

中村医師やスーパーボランティアの尾畑春夫さんは、間違いなく地球人卒業だと思います。
合掌。
本当にお疲れさまでした!!
(尾畑さんはまだご活躍中ですが)

「神の道化」ニジンスキーはフレディの理想の人・その2

フレディは1979年に、英国ロイヤルバレエ団の誘いを受け、短期間でバレエの特訓をし、ついにバレエ団の舞台に立ちました。
バレエ好きのフレディにとって、これはどんなにか嬉しかったことでしょう!
踊りながら「ボヘミアン・ラプソディ」を歌うのですが、なんと逆さ吊りにされたまま歌うシーンもありました。
まあヨガもやっているから、逆立ちには慣れているのかな。
これは私が最も好きなフレディの写真のうちの一枚。
フレディがすごく幸せそうだから。
フレディのバレエ


ニジンスキーの他に、もう一人の重要なバレエダンサーがいます。
ルドルフ・ヌレエフ(1938〜1993)。
ヌレエフという名前は、アラビア語の「ヌーリー(光の)」をロシア風に変えたもので、親族は中央アジア系のタタール人だという。
2019年にヌレエフの映画「ホワイトクロウ」が公開されましたが、まだで見ていないので、ぜひ見たいと思っています。
ヌレエフ

シベリア鉄道の中で生まれたヌレエフは、17才でロシアの名門校ワガノワ・バレエ学院に入り、ソリストとしてマリインスキー・バレエに入団。ニジンスキーの再来と言われました。
1961年にイギリスへ亡命し、ロイヤルバレエ団でマーゴ・フォンテインとペアを組み、伝説のパートナーシップと言われました。
ヌレエフ2
バレエでは半裸は当たり前。
フレディだけではないですよ。

フレディがロンドンへやって来た1964年頃には、ヌレエフはウィーンへ拠点を移してしまうのですが、同時代を生きていたヌレエフは、フレディの憧れの的だったと思います。
ネットでは、フレディとヌレエフの交際が噂されたり、一緒に踊ったことがあると書かれているものもありますが、裏付けは取れていません。
二人の交際については否定的な意見が多いようですが、全く可能性がないわけではなく、もし二人が絶対に隠していたのならば、その事実が明らかになることはないでしょう。

フレディが亡くなって2年後、1993年にヌレエフもまたエイズで亡くなりました。54才でした。
ニジンスキー、ヌレエフ、フレディ・・・有り余る才能のある人は、あまりにも神に愛されているのでしょうか?


1984年になって、クイーンの「自由への旅立ち(I Want to Break Free)」のPVの中で、フレディはニジンスキーの「牧神の午後」の衣装をまといます。
牧神の午後

このモーモータイツもお気に入りだったのですね。堂々たるものです。
モーモータイツ

1985年の「Living on My Own」のPVでも、ニジンスキーの白黒ダイヤ柄タイツを着用しています。
フレディにとってニジンスキーは、人生の道標だったのではないでしょうか?

フレディはクラシック音楽やオペラやバレエも好きでした。
そんなロックミュージシャンていますか?
私もフレディと一緒にオペラやバレエを観に行きたかったな。
でもフレディは男娼を連れてきて、にやりと笑うかもね。
やれやれ。
背広のフレディ
それが何か?

ちなみに、フレディのお辞儀はレヴェランスと言い、シェイクスピアなどヨーロッパの古典演劇で、劇中の人物が挨拶したり、演劇が終わった時に役者が観客に挨拶をする時のものだそうです。
バレエではないようですが、バレエをやっている人から見ると、フレディの手の動きは、確かにバレエを練習した人の動きになっているそうです。

2020年3月に、パリ・オペラ座バレエ団が来るので、チケットを買いました。
4月のベジャールのチケットも、抽選申し込みをしています。
5月の「バレエ・フォー・ライフ」も楽しみですね。

「神の道化」ニジンスキーはフレディの理想の人・その1

フレディのバレエ好きは有名ですが、とくにニジンスキーに心酔していました。
1976年のインタビューで、フレディはバレエと「舞台でのプレゼンテーションはすごく近いものがあるんだ。」
「僕はバレエという芸術に夢中で、だからこそニジンスキーの衣装を成功させたいと思っているし、これまで以上にアーティスティックな手法で自分たちの音楽を伝えようとしているんだ」と語っています。
1970年代の後半には、ロンドンではパンクの嵐が吹き荒れていたというのに、なんとフレディはバレエに熱中していたのですから全くの埒外です。
フレディは「世の中にバレエを普及するんだ」と言っていたので、バレエ界にとっては大変な恩人です!

フレディが敬愛したニジンスキー(1890年頃〜1950年)は、ポーランド人の両親のもと、ロシアで生まれました。
ニジンスキーは、自らを「神の道化」と呼び、「神を喜ばせるために踊る」と言いましたが、彼をなくしては20世紀のバレエも、コンテンポラリーダンスも、暗黒舞踏もなかっただろうと言われるほどの真の天才でした!
ニジンスキー1
宙を舞うニジンスキー

ニジンスキーは10才でマリインスキー劇場の付属舞踊学校に入り、18才でマリインスキー劇場の主役に抜擢されました。
マリインスキーは世界最高峰の劇場、及び舞踊学校です。
しかし才能溢れるニジンスキーの活躍期間は約10年という短いものでした。

ニジンスキーは芸術プロデューサーのディアギレフと出会い、ディアギレフが結成した「バレエ・リュス」というバレエ団で活躍します。
「バレエ・リュス」は新しいスタイルのバレエを生み出し続けました。
ディアギレフとニジンスキーは同性愛の関係にあり、ニジンスキーはバイセクシュアルでした。
バイセクシュアルは、バレエ界では珍しいものではありません。
同性愛者のディアギレフは裕福な地方貴族の出身でしたが、彼の出産から間もなく母親が死亡し、母がいない寂しさを味わっていました。また彼は、愛人を一流の芸術に触れさせて教育するという方針を持っていました。
ディアギレフなくしてはまた、後のニジンスキーも存在しなかったのです。
ニジンスキー2
ニジンスキーはその中性的な外見で人気を博していました

フレディは交際相手として、レコード会社の重役や、マネージャーなどを選んでいましたが、これはディアギレフのような存在を求めていたのでしょうか?
自らをニジンスキーに例え、自分を高め、育ててくれる人を望んでいたのかもしれません。

ニジンスキーはバレエの時代を革新した天才でしたが、残されているのは写真のみで、映像は存在しないため、まさに「伝説」となっています。
写真を見ても、その跳躍力はすさまじく、一緒に踊っていたアンナ・パブロワは、彼が「空中で静止していた」と言っています。
フレディが「自分は伝説になるんだ!」と言った時、その念頭にはニジンスキーの姿があったのではないでしょうか?

ニジンスキーの妻(バイセクシュアルなので妻がいた)の言葉です。
「彼は全生涯と魂とその天才を人類のためにそそぎこみ、観客を高め、世界に芸術と美と喜びを与えようとした。」
フレディはこのようなニジンスキーを自分の理想としていたのではないでしょうか?
ニジンスキーは「神の道化」で、道化は手に木劍を持っています。
フレディは手にマイクスタンドを持っていました。

フレディのステージ衣装、ダイヤ柄のタイツ(?)は、道化師の衣装です。
しかし道化師のダイヤ柄はカラフルなもので、白黒のものはありません。
フレディのオレンジ色のダイヤ柄衣装は、伝統的な道化師に似ています。
一方、白黒のダイヤ柄は、ニジンスキーを描いたデザイン画に、同様のものを見ることができます。
フレディはニジンスキーの衣装から、自分の衣装を製作したのです。
ニジンスキーのダイヤ柄
ニジンスキーの白黒ダイヤ柄衣装

フレディの白黒ダイヤ柄
これはご存知フレディの白黒ダイヤ柄。
フレディは突然奇抜な衣装を発案したのではなく、「ニジンスキーの衣装」として作ったのだった。
フレディがそんなに奇天烈な人ではなくて良かったですね。

フレディのオレンジのダイヤ柄
こちらのカラフルな方が道化師の伝統的な衣装

ニジンスキーはポーランド人ですが、西洋的ではない顔立ちのため、あだ名は「日本人」と呼ばれていました。
本人も日本に対しては特別な気持ちを持っており、「日本風のバレエ」を考えようとしていました。
これはフレディの日本趣味に影響を与えていないでしょうか?

ニジンスキーは10年ほど活躍して、バレエ界に革新を起こして後、残念なことに精神に異常をきたし、それから30年間は狂気のうちに過ごしました。
このニジンスキーの悲劇を、フレディはどのように捉えていたのでしょうか?





もしフレディが生まれ変わったら

<もしもフレディが、シリーズ6>
もしフレディが生まれ変わったら。

これは色々な可能性が考えられるでしょう。
歌手だったり、画家だったり、バレエダンサーだったり・・・。
でもイチオシなのはこれなんです。

フレディの言葉。
「長生きできるとは思っていない。それに、長生きしたいとも思わない。70歳まで生きたいなんて絶対に思わないな。きっと退屈だもの。それよりもずっと前に、この世を去っていると思うよ。みんなの前からいなくなってる。そしてどこかで新たな人生を歩んでる―ザクロの木を育てながらね。」

これはたぶん病気がわかってからの言葉だと思うが、
「ザクロの木を育てている」というのは意外な発言です。
ザクロは日本にもありますが、ペルシャ原産で、ペルシャのザグロス山脈が語源になっているという。
日本には平安時代の923年に渡来して、薬用として大切にされました。
ざくろ

紀元前6世紀のアケメネス朝ペルシャでは、ゾロアスター教の礼拝時に、信者がザクロジュースとバラ水を飲んだことが記録されています。
古代ギリシャの医学書や、パピルスに書かれたエジプトの医学書、中国の漢方書、インドの最古の医学書「アユルヴェーダ」にも、ザクロの効果が書かれています。
ザクロの効能には、むくみの解消、高血圧の予防、動脈硬化の予防、改善抗酸化・抗炎症作用、記憶力の向上などがあるとされています。

古代ユダヤには「神々がザクロを好んだ」という神話があり、ソロモン王は、3000年前にザクロの果樹園を開きました。
ペルシャでは王家がザクロの栽培を独占し、「王家の果実」「生命の果実」と呼びました。
ペルシャ医学では、ザクロは汚れた血を浄化してくれる「天国の果実」であると考えられています。
病に蝕まれたフレディが、ザクロによって体内を浄化したいと考えたのではないかと思うと、やはり悲しくなります。

ザクロは中近東原産ですが、ヨーロッパでもよく食べられており、ヒースロー空港で食べたフルーツサラダとヨーグルトにもザクロが入っていました。
ヒースロー空港のザクロ

私が生まれ育った家には井戸があり、井戸の側にザクロの木がありました。
そこに野良猫が住み着いていたので、私の記憶の中ではザクロと井戸と猫がセットになっています。
そのザクロを取って食べていましたが、日本のザクロは酸っぱくて種が固いのです。
ロンドンで食べたザクロは甘かったので、品種が違うようです。
ペルシャのザクロは日本と違い、酸っぱくないそうです。

日本にもザクロがあることに、フレディも驚いたことでしょう。
なんと古伊万里の大きな壺の蓋に、ザクロがついたものもあります。

エデンの園でイブが食べた果実はザクロだという話もあります。
楽園/天国を意味する「パラダイス」は、メディア語の「パリダイサ」から来ており、この語がアケメネス朝ペルシャ経由でギリシャに入って、「バラダィソス」となりました。
これが紀元前3世紀に、エデンの園を指す言葉となり、新約聖書では「天国」を意味することにもなりました。

「天国」(バラダイス)は、語源をたどっていくと「庭園」に行き着きます。
「庭」とは、天国を地上に写し取ったものなのです。

ペルシャにはザクロの果樹園があります。
フレディはそこでザクロの木を育てているのでしょうか。
その果樹園とは「楽園」です。
よかったね、フレディ。
by 「楽園のペリ」
ザクロの木

フレディは「この世を去って」から「どこかで新しい人生を歩んでいる」「ザクロの木を育てながら」と言っています。
ということは、ザクロを育てながら、新しく何かをやっているのでしょうね!
また〜何をやっているのかな?
たくらむフレディ
夢の続きを企むフレディ


 

お金持ちは幸せなのか?

お金持ちは幸せなのでしょうか?
フレディはお金持ちでしたが、「自分は世界で一番孤独なんだ」とか、「自分には家族がいないから幸せになれないんだ!」とか、「すごく惨めになるのは、僕がお金持ちだからだ」なんて言っていました。
お金持ちは幸せそうに見えますが、そうではないのでしょうか?

お金がないのも困りますが、あまりあり過ぎても大変らしい。
人々はお金持ちになりたくて、一生懸命お金持ちを目指します。
そして年収が増えるにつれ、幸せ度は増すのですが、最も幸せを感じる収入とは、年に750万〜1000万円ぐらいとされていて、それ以上増えても、あまり幸せ度は変わらないという。
病院経営を拡大した医師によると、細々とやっていた頃の方が幸せだったと家族みんなが言っているとか。

株式投資で何十億と儲けている人の話では、
収入が増えると、常に株の動きが気になり、お金のことばかり考えるようになってしまった、
税金が高くなり、重圧を感じる、
仕事に対するモチベーションが低くなってしまった、
周囲の人がお金を目当てに寄ってくる、
家族や友人から借金を申し込まれる、
子供がうまく育つか心配、
などと悩みが増えてしまったそうです。
お金持ちにはお金持ちの悩みがあるのですね。

フレディの場合は、お金のことばかり考えるということはないけれど、税金対策でよく外国へ出なければならなかったり、友人にお金を無心されたり(ピーター・ストレイカーとか)、私生活をマスコミに売られたり(ポール・プレンター)していました。
お金持ちであることより、有名人であるために、常にマスコミに狙われてスキャンダルを撒き散らされたりすることの方が大変だったのではないかと思われます。

「お金があればあるほど惨めになるんだ」というフレディの気持ちは、一般人にはよくわかりませんが、
お金でいくらモノを買っても、決して人間は幸せにはなりません。
モノを買っても、人間はすぐにそれに慣れてしまい、また別のモノが欲しくなり、際限がありません。
ある女作家は、着物や宝石を沢山集めたけれど、全く幸せにはならなかったと言っています。
誕生日にクルーザーを買ってもらった子供がいますが、友達の船にはヘリポートが付いているので、今度はそれが欲しくなったと言っています。
フレディは自分の誕生日パーティーに8000万円使ったり、日本に来て1億円ぐらい買い物をしたけれど、それだけでは幸せにならなかったのでしょう。
とにかくフレディは気に入ったものがあると、やたらと買い占めていましたが、「欲しいものが手に入っても、何も感じなかったこともある」と言っています。幸せを感じていないのです。
フレディのパーティー

ロジャーは、はっきりと「金持ちであることや成功することは、幸せとは全く関係がない」と言い切っています。
これはフレディの「家族がいないから幸せになれないんだ」発言に関係しているようです。
つまり、いくらお金があっても、心の満足がなければ幸せではないということですね。
フレディとロジャー
フレディは般若なの?

それでは、モノではなく、「愛こそすべて」なのでしょうか?
フレディは生涯、愛を求めて彷徨しました。
自分の愛はデンジャラスなものとして、それを歌にし、自分の愛が安全ではつまらないだろ?と言っています。
自ら愛を破壊するところもあったようですが、それでは愛さえあれば、人間は幸せなのでしょうか?
映画やポップソングでは、やたらと愛を賛美しますが、人間にとって愛が最高の価値あるものなのでしょうか?
人間の愛は移ろいやすいものであり、有限なものではないでしょうか?
(中には死を超えて続く愛もあると思いますが)

フレディの愛には、なぜかお金が付きまといます。
男娼をお金で買ったこともあるし、恋人には高級品をプレゼントしていたし、メアリーやジム・ハットンには給料を払っていました。
フレディが愛を分け与えることと、お金をあげることは、とても近いことだったようです。

愛されることを欲するならば、自ら愛することしかない、これは真の法則だと思います。

チャップリンは、「人生に必要なものは勇気と想像力と、少しのお金だ」と言いました。
人間にはお金だけでなく、愛情も必要だし、やりがいのある仕事があればもっと幸せになります。
自分が好きな仕事をして、周りの人と共に成長して行かれれば、こんなに幸せなことはないでしょう。

人間に必要なもの、それは「四大元素」という考えがあります。
「四大元素」とは「火地風水」のことで、古代ギリシャ・ローマ、イスラム世界、19世紀のヨーロッパなどで伝播し、インドにも似た考えがあります。
「火」は人間のパワー、意欲、意志、情熱など
「地」は物質。土地やお金。形あるもの。
「風」は知性、知識、情報、コミュニケーションなど。
「水」は感情、愛情、共感、感受性。

これらが揃って、人間はバランスのとれた存在となり、完成された人間へ近づくことができます。
お金持ちになると、「地」に偏ってしまい、重くなってしまうのかもしれません。
あまり「水」が過多になると、「Too Much Love Will Kill You」になってしまうし。
「風」が多いと、勉強ばかりしていたファウスト博士ですね。
「火」が多すぎると猪突猛進型になります。
私たちはこの4つを少しずつ増やしながら成長しているのです。
4つが揃った時、新しい扉が開かれます。






フレディが最後に買ったティソの絵

1991年、フレディは最後の絵を買いました。
1836年生まれのフランスの画家、ジェームズ・ティソの絵です。
ティソは普仏戦争を経てパリ・コミューンに参加した後、ロンドンへ渡り、多くの作品を制作しました。
10年後にパリへ戻り、風俗画が成功し、流行画家となります。
しかし死後は次第に忘れられた存在となり、また近年になって評価が高まっています。

ティソの絵を見て、私は驚きました。
今までにこのブログで取り上げたテーマが多いのです。
たとえば「公園のファウストとマルガレーテ」
ファウストは悪魔と契約して若さを手に入れ、マルガレーテと関係を結びますが、やがて悲劇となり・・・マルガレーテは天国へ。
「永遠にして女性的なるものが、われらを引く上げてくれる」という言葉で幕を閉じます。
フレディは「伝説になる!」と決意し、最後に「マザーラブ」へ辿り着きました。
ファウストとマルガレーテ

放蕩息子の帰還
人生の真の目的を忘れ、放蕩の限りを尽くした息子を温かく迎える父親。
人間の魂の遍歴を表しています。
フレディも放蕩をしたけれど、最後はガーデンロッジで満足な暮らしをしました。
ティソ放蕩息子の帰還

「花瓶を持つ日本の女性」
日本の陶磁器については昨日書いたばかりでした。
ティソは日本の美術品を最も早く収集し始めた西洋人でもあります。
日本の美術を西洋へ紹介した人です。
1868年のパリ万博で、日本代表として来ていた徳川明武公(徳川慶喜の弟)の肖像画を描いています。
フレディもティソの絵から、日本の美術に興味を持ったのかもしれません。
フレディは伊万里焼きのコレクターになりました。
花瓶を持つ日本の女性

そして注目なのは、この「浴室のラ・ジャポネーズ
このモデルは体格が良く、明らかに日本人ではありません。
何か日本に対する誤解があるように思いますが、これが西洋から見た(想像した)日本なのでしょう。
ジャポニスムについては、以前にこのブログでも取り上げました。
浴室のラ・ジャポネーズ
この絵がフレディのステージ衣装に影響を与えていないでしょうか?
1975年の日本ツアーで買ってきた着物で、その年のクリスマスにハマースミスで行なったコンサートのアンコール中、ストリップを演じたあの着物です。
フレディの着物
これは花嫁衣装でしょう。
日本人が見ると、とんでもない映像ですが。
これがこうなって。
フレディのストリップ
あれ? ハマースミスでは、着物の下は白いシャツだったかな?
それじゃこれはどこ?

とにかくティソは、ジャポニスムについてフレディに強い影響を与えたと考えられます。
そしてフレディが最後に買った絵が、このティソでした。
よほど好きだったのでしょう。
ジム・ハットンの本によると、クリスティーズで見つけたティソの絵は、ティソの愛人キャスリーン・ニュートンの肖像画で、ボンネットをかぶり、左手を頬に当てているという。
実物は確認できませんでしたが、このような絵でしょうか。
ティソのボンネット
フレディはキャスリーンの絵に16万ポンドを出したそうです。
16万ポンドは今のレートで2250万円!
1991年春のポンドは240円ぐらいだっので、何と3800万円!
それほど気に入ったのですね。
でもジム・ハットンは、その絵は不幸の絵だったと言っています。
なぜなら絵の中のキャスリーンは不治の病にかかっていて、この絵が完成した後まもなく亡くなったからです。
これが「肘掛け椅子のキャスリーン・ニュートン」
肘掛け椅子のキャスリーン・ニュートン

フレディはおそらく若い頃からティソの絵を見て、ジャポニスムの影響を受け、ステージ衣装にも着物を取り入れていました。
そして最後に買ったのもティソの絵。
女性の肖像画でした。
フレディはその女性から何を感じたのでしょうか?
最後の録音「マザーラブ」を歌った頃です。
ゲーテの「永遠にして女性的なるものが、われらを引き上げてくれる」ことを思ったのでしょうか。






フレディが愛した伊万里焼はヨーロッパを席巻した高級品質磁器

フレディは伊万里焼きのコレクターでした。
伊万里焼きは、日本が世界に誇る焼き物です。

伊万里焼は、豊臣秀吉が朝鮮出兵を行なった際に、朝鮮から多くの陶工を日本へ連れ帰り、佐賀県の有田で磁器を作らせたことによって始まります。

陶器と磁器の違いについては、陶器の材料は土ですが、磁器の材料は石の粉であり、石の粉に粘りを与えるために粘土を混ぜて使います。陶器を叩くと鈍い音がしますが、磁器を叩くと金属的な明るい音がします。

中国では紀元前から磁器の製造が始まっていましたが、日本では中世までの焼き物は陶器であり、磁器は輸入品に限られていました。日本で初めて磁器が作られたのは17世紀の有田です。

「有田焼き」と「伊万里焼き」についてですが、佐賀県の有田地域で作られた磁器は、品質の高さが海外に知れ渡り、伊万里港から輸出されるようになったため、「有田焼き」「波佐見焼」「鍋島焼」などが「伊万里焼き」と呼ばれるようになりました。
つまり「有田焼き」と「伊万里焼き」は同じものです。

「有田焼き」は普段使いの普及品から、皇室献上の特級品までがあり、私たちの家庭にもごくありふれたものとして使用されています。ですから外国人が「伊万里焼き」を珍重することに不思議な感覚を抱いてしまいますが、「伊万里焼き」には現代の焼き物と、江戸時代に作られた「古伊万里」の2種類があります。骨董品として貴重なのは、この「古伊万里」です。
古伊万里
フレディが好きなのは、この手の「古伊万里」でしょう。

古伊万里金襴
これは古伊万里様式の金襴手と呼ばれるもの。秀吉が好きそう。

17世紀後半になってから、オランダ東インド会社によりヨーロッパー持ち込まれた「柿右衛門様式」と言われる有田焼きは、ハプスブルグ家やブルボン家、ハノーバー家の大貴族たちの間で絶大な人気を誇ってきました。
ヨーロッパ磁器界トップに君臨しているマイセンは、ドイツ(ザクセン王国)のアウグスト王が、日本のように優れた磁器を作るように命じたことから始まりました。
柿右衛門様式
柿右衛門様式

私もヨーロッパの名窯のティーカップを少々コレクションしていますが、いろいろと手に取ってみて、やはり日本の磁器の方が品質が優れていることを実感しました。
日本の磁器がヨーロッパの王侯貴族に与えた影響は絶大だったのです!
とくに古伊万里はオールド・イマリとして、世界中に熱烈になコレクターが存在します。
そすがフレディは目が高いですね!
フレディが愛した伊万里焼とは、オールド・イマリのことと思われます。
きっとヨーロッパのお城や邸宅で、日本のオールド・イマリを目にしたのでしょう。
古伊万里皿
古伊万里皿

オールド・イマリは骨董品なので値が高く、なかなか庶民には手の届かないものですが、
有田では毎年5月の連休と、秋にも陶磁器の市が開かれ、沢山の人出で賑わいます。
そこでは手頃な値段の掘り出し物などもありますから、見物に行くと面白いですよ!
私もアリタ=イマリが好きなので、市の時ではありませんが、3回ほど有田へ行ったことがあります。
有田には沢山の製造元があり、窯の煙突があちこちに見られます。
その光景は日本ではないような、今でも朝鮮の雰囲気が残された不思議な界隈となっています。
有田市

創業325年を誇る有田の「香蘭社」は、デパートの食器売り場でもよく見かけるので、身近に眺めることができます。
1894年に香蘭社から分かれた「深川製磁」は、1900年のパリ万国博で金賞を受賞し、皇室にも献上品を贈っています。

日本の磁器の特徴は、「白い」こと!
その抜けるような白く滑らかな輝きは、ヨーロッパの王侯貴族たちの賛嘆の的となりました。
焼成温度が高いので、薄く軽く、硬度が高いのも特徴です。
やはり世界を回っても、これほど上質な美品にはなかなかお目にかかれないので、私も「深川製磁」のものなどを愛用しています。
しかしオールド・イマリは、フレディのような富豪じゃないと・・・!

ちなみに、フレディが使用していた「ノリタケ」は、有田=イマリではなく、1904年創業の名古屋の陶磁器メーカーです。
生産量は世界最大級で、明治から戦前にかけて欧米へ大量に輸出されました。
ノリタケは欧米で絶大な人気を博し、戦前までのものは「オールドノリタケ」として、世界の陶磁器愛好家がコレクションしています。
アールデコを基調としたデザインが大量に作られた時期もあり、アールデコが好きなフレディとしては、外せないアイテムだったことでしょう。
ノリタケの子会社に「大倉陶園」があり、高級磁器を皇室などに収めています。
フレディのノリタケ
フレディのノリタケ。どうして裸で飲んでるの?

フレディは日本びいきでしたが、とりわけ好きだったのは伊万里をはじめ日本の美術工芸と、日本庭園など「日本の美」でした。
また、あまり本を読まないフレディが「五輪書」を読むなど、「日本の精神」に興味がありました。
欧米の文化人、知識人たちは日本文化を良く知っており、高く評価しています。
案外、日本人である私たちの方が日本文化を良く知らず、軽視している面があるので、私たちももっと日本文化を大切にしていきたいものだと思います。





ジム・ハットンの数奇な運命と「無償の愛」

無償の愛について。

フレディは愛を求め、愛を歌いましたが、人間の感情的な愛は有限のものです。
それに対して、限りのない愛、見返りを求めない愛は「無償の愛」。
母親が子供に注ぐ愛は、無償の愛だと言われます。
条件付きの愛ではないので、ありのままで100パーセント受け入れられる愛のこと。
無償の愛は、いくら分け与えても全く減らない愛でもあります。

フレディはきっとそのような愛を求めていたのでしょう。
ママを吊し上げたり(タイ・ユアマザー・ダウン)、殺人を告白したり(ボヘミアン・ラプソディー)しながら、最後に行き着いたのは「マザー・ラブ」母なる愛でした。
歌詞の中にあるママは、現実の母親に重ねた大いなる「母なるもの」でしょうし、太古の女神だったのかもしれません。
「母の中に帰りたい」というのは、生まれる前の世界、静かなやすらぎの世界に戻りたいという願望でしょう。
母とは、大地母神やグレートマザー、またはガイア(地球)のことかもしれません。

フレディの一生の中には、周囲に興味深い人物が多々見受けられます。
ジム・ハットンもその一人で、数奇な運命を辿った人物ではあります。
ジム・ハットンがフレディと共に過ごした6年ぐらいのうち、4年半は闘病生活だったわけですから、病気の憂いのない時期は思いのほか短かかったことになります。
とくに最後の頃は看病に明け暮れる毎日で、最愛の人が病気に蝕まれていく様を見続けなくてはならない、まことに辛い日々でした。

ジム・ハットンとフレディの関係は平穏なものではなく、常に他の恋人の影もちらつくし、影どころではなくフレディが恋人を家に連れてくるし、痴話喧嘩はするわ、フレディに「出て行け!」と言われたこともあるし、裏切り者の嫌疑をかけられたこともある。
それでも別れなかったのは、ひとえにジムの人徳のなせるわざ。
私だったら、とっくに別れてます、ハイ。(情けない・・・)
フレディはジムに喧嘩をふっかけて、愛情を試していたのですね。
フレディはジムと「戦っていた」と言っていましたが、恋人と戦わないでね!
ジム・ハットン

そしてジムという人間が、とりわけ光り輝いて感じられるのは、フレディが病気を告白した時。
フレディが「きみは自由に出て行っていいんだよ、ドアは開いているから」と言うと、ジムは「出ていくなんてことはない。ずっときみの側にいるよ」と言います。
これってすごくないですか!?
当時、エイズは治療法がなく、死に至る病として恐れられていました。
もし自分の恋人や配偶者がそのような病になったら、あなたならどうしますか?
当時は病院でも、医療関係者が感染を恐れて、治療から逃げることもあった時代です。
自分にも感染の恐れがあり、死ぬかもしれないというのに、ジムはフレディの側にいることを選んだのです。
これこそが自分よりも相手の幸せを願う「無償の愛」なのです!
ジムは「無償の愛」を実践したことで、精神的に大きく成長したことでしょう。

ジムは案の定、病気に感染していましたが、そのことを1年ぐらいフレディには隠していました。
それはもし事実を伝えれば、フレディが感染させたことで自分を責めるだろうから、彼を苦しめたくなかったため。
そこまで気配りができるというのは、相当に人間が出来ていると思うし、本当にフレディを愛していたのでしょう。
ガーデンロッジでは、まさに愛と死のメロディーが奏でられていたのです。
ジムとフレディ

フレディの死により、ジムは悲哀のどん底に突き落とされ、孤独の淵をさまよいました。
この時もジムの寂寥を癒してくれたのは、2匹の猫だったといいます。

そして数年後、とてつもない僥倖がジムのもとに訪れます。
エイズの治療薬が開発されたのです。
フレディの死を看取ったジムは、自分も同じように衰えて死ぬことを覚悟していたはずですが、ここで予想だにしなかった逆転ホームランが起こり、文字通り起死回生を果たしました。
きっとジムはこの幸運を神に感謝し、フレディには救いの手が届かなかったことを無念に思ったことでしょう。
それから10年以上を生き延びたジムは、故郷のアイルランドへ戻り、フレディの思い出とともに穏やかな人生を送ったようです。
人生において、これほどの幸福と衝撃と悲哀と安堵と諦念を感じた人というのも珍しいのではないでしょうか。


話は変わって、スペインの作曲家で、グラナドスという人がいます。
彼は愛妻家で、1916年のアメリカ演奏旅行にも妻を帯同していました。
演奏旅行は成功し、船で帰路に着いたのですが、ロンドン経由で英仏海峡を航行中に、ドイツ潜水艦による魚雷攻撃を受け、夫妻はその犠牲になってしまいました。
この時、グラナドスは救命ボートに救い上げられるところだったのに、波間に溺れる妻を見て、助けるために海に飛び込み、そのまま二人はもつれ合うように暗い海の中へ消えていったという。
グラナドスは48才でした。
グラナドス

自分の身の安全を顧みず、妻を助けるために海に飛び込み、命を落としたグラナドス。
結果的には妻を助けることはできませんでしたが、これも「無償の愛」だと思います。

もしあなたの恋人や配偶者が海で溺れていたら、あなたは海に飛び込みますか?
または子供やペットだったら飛び込みますか?

「無償の愛」とは、仏教では「慈悲の心」と言われます。
慈とはいつくしみ、悲とは同情、あわれみです。
要するに、人にはなるべく優しくしましょう! ということですね。

「無償の愛」とは、宇宙にあふれる生命エネルギーのことでもあります。
このエネルギーに触れると、活力と幸福感が得られ、周りの人たちにも放射することができるようになります。
私たちは本来は孤独ではないし、満たされた存在です。
ただそれを思い出しさえすればいいのですけどね。


プロフィール

楽園のペリ

Author:楽園のペリ
1975年、初来日の武道館でクイーンを体験、フレディのファンになる。長らくクイーンのことは忘れていたが、映画を見て思い出し、フレディについて研究するうち、ついにロンドンのガーデンロッジや、モントルーのクイーンスタジオまで行ってきました!

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