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27クラブ

フレディは早死にだったのだろうか?
現在の日本の平均寿命は、男性81才なので、それに比べると早い。
フレディは男性なのかどうか、よくわからないけれど。それは置いておいて。
現在のイギリスの平均寿命は全体で81才ぐらいで、男性は79.5才。
フレディが亡くなった1991年当時は、イギリスの平均寿命は全体で76.08才。
男性の平均はわかりませんが、75才ぐらいでしょう。
そうすると、やはり平均より30年ぐらい早かったことになります。

フレディは、やはり早死にだった・・・いちいち考えなくてもわかるでしょうに!
イギリスの平均寿命と比べましたが、フレディは17才まではイギリスより寿命の短い国にいたので、
その分は少し短くなるかもしれません。

これは国民全体の平均寿命と比べての話ですが、
しかしロックミュージシャンは違います!
「27クラブ」という言葉をきいたことがありますか?
ロックミュージシャンは、27才で死ぬ人が多いのです。
ブライアン・ジョーンズ、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ジム・モリスンは、1969年から1971年の間に、27才で死亡しました。
当時、これは偶然の一致だろうとされましたが、25年後にカート・コバーンが27才で死亡すると、「27クラブ」という概念が定着するようになりました。
ここまでは私も知っていたのですが、wikiを見ると、他にも27才で死んだミュージシャンが沢山いるのでびっくりです!
ほとんど薬物乱用とアルコール依存症、殺人、自殺、交通事故などの暴力的な手段によって死亡しています。
1960年代から70年代の初めにかけては、ロックは反体制的な若者の音楽であり、30才を過ぎたロックミュージシャンなど想像することもできませんでした。
現在のように70代のロックミュージシャンがいるなどということは、全くもって想像を絶する世界で、人類はまさに未踏の域に足を踏み入れていることは間違いありません。
こうなったからには、ぜひ80代や90代のミュージシャンになって活躍してください! 「80クラブ」「90クラブ」「100クラブ」万歳!

ビートルズのアビー・ロードの写真では、ポール・マッカートニーだけが素足になっていて、後方の車のナンバーが「28IF」だったので、これはポールが「もし28才まで生きたなら」という意味で、実はポールは事故で死んだのだという噂が、まことしやかに囁かれていたのです。
アビーロード

フレディが敬愛するジミ・ヘンドリックスが1970年にロンドンのホテルで死亡した時は、フレディもすごいショックだったことでしょう!
ジミヘンの死には他殺説もあり、マネージャーのマイケル・ジェフリーが「ジミを殺した」と言ったことが書かれた本もあります。
ジミはマフィアの金づるにされていて、麻薬づけだったそうですから、本当に音楽業界は魔界なのですね。
ジミ・ヘンドリックス

「27クラブ」に入ってしまった人は多かったけれど、フレディは逆に27才の半年間で、一挙に成功への階段を駆け上がったので、やはり27歳というのは特異な年齢なのでしょうか?

1980年にジョン・レノンが殺された時も、フレディは相当なショックだったようですから、周囲で若くして死ぬ人を余りにも沢山見たために、自分も長くは生きないだろうと思ってしまったのではないでしょうか?
フレディは「長生きしたいとは思わない、70才まで生きるなんて思わない」と言っていましたよね。
フレディは「27クラブ」の人たちよりは長生きでしたし、充実した人生だったので、ただ長生きをするだけの人生より良かったのではないでしょうか。

これは27才ぐらいかな
フレディ5


クラシックでは、シューベルトは31才、モーツァルトは35才、メンデルスゾーンは38才、ショパンは39才です。
クラシックの作曲家に比べると、フレディは長生きの方なのですね。
それにしてもフレディの45才というのは、まだ人生の半ばで、これから人間が成熟してくるところでしたから、やはり若くしてこの世を去ったと言えるので残念に思います。

ところで、イギリスの平均寿命というのは、地域によって格差があり、富裕な地域では寿命が長く、貧困な地域では寿命が短いのです。
フレディが住んでいたあたりのケンジントン・アンド・チェルシー地区は、世界的に富裕な地区として有名で、平均寿命も男性83.3才、女性86.4才と長くなっています。
それに比べて貧困な地区では、なんと20才以上も短いそうなのです!
しかもアフリカの貧しい国よりも短いそうなのです!
イギリスは先進国の中では、とても貧富の差が大きいことが目立っています。
(そういえば映画監督のケン・ローチが、イギリスの貧困などの社会問題をテーマに映画を作っていますね。)
日本ではそれほど地域による格差は大きくないし、平均寿命は世界一なので、やはり良い国なのですね。(イギリスは21位)





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ジョージ王朝様式のガーデンロッジ

ロンドンのフレディのガーデンロッジは、ジョージ王朝様式だそうですね。
ジョージ王朝のガーデンロッジ

ジョージ王朝様式とは、1714年〜1811年に建てられた、シンメトリーを基本とした建築のデザインです。
三角形の壁や、柱はルネッサンスの影響を受け、古典的な装飾が見られます。
ガーデンロッジは200年ぐらい前に建てられたものなんですね!
ロンドンは地震がないので、古い石造りの建物が沢山残っています。
さすがデザインに詳しいフレディが選んだ住居は、美しい佇まいですね。

他のジョージアン様式の建物。
ジョージアン様式の建物

内装はこのようになっています。
ガーデンロッジの内装もジョージアン様式に合わせているのでしょうか。
フレディ邸の写真を見た時、随分クラシカルな内装と家具だなと思いました。
ロックミュージシャンらしくない印象です。
でもそれがフレディなんですね。
ジョージアン様式の内装1

こちらはダイニング。
天井の縁に白い装飾があります。家具も素敵ですね。
ジョージアン様式の内装2

家具といえば、フレディは美しい家具が大好きでした。
ガーデンロッジを美しく整えるのが楽しかったでしょうし、余りに沢山家具を買ったので、
家に入りきらず、倉庫に保管していたそうです。
そんなに家具が買えるなんて、うらやましい〜。
ジョージアン椅子
これはジョージアン時代のデザイナーによる椅子です。
左からロバート・アダム、チッペンデール、ヘップルホワイト。
フレディのベッドはチッペンデールで、1000万円もしたそうですが、本物のアンティークなので高価なのですね。
そのチッペンデールに、猫のデライラがおしっこをかけたことは、歌にも歌われていますね。
チッペンデールはフランスのロココ様式を元にしており、クイーン・アン風、ゴシック風、ロココ風、中国風、ネオクラシズムの5つの様式があります。

これがチッペンデールの、クイーン・アン様式の椅子。マホガニー製です。
チッペンデールの椅子

じつは私もヘップルホワイトの椅子を持っています。後期ジョージアンです。
とても素敵なので気に入っています。
ジョージアン様式のデザインは洗練されていて、実用性もあり、ヨーロッパ中で愛用されました。
私たちはジョージアンの家には住めないけれど、フレディの愛したデザインを楽しんでみてはいかがでしょうか?
フレディのおかげで世界が広がります!


もしフレディが日本に住んだら

フレディは「日本に住んでもいいと思ってる」と言いましたが、もし本当に日本に住んだら、どんな家がいいか考えてみました。

まず、純和風の家はどうでしょうか?
日本の家
フレディの家には和室があったそうですが、タタミはあったのでしょうか?
やはり和室といえばタタミですよね!

そして日本庭園ですね!
日本庭園

こんなに広い庭園は、管理が大変ですね。
そして純日本家屋の武家屋敷などを買い取ると、水周りのリフォームが必要ですし、冬は隙間風が入って寒いです。

そこで、こんな和モダンはどうでしょうか?
和モダン1

和モダン2

いいですね〜
もっとモダンなのはどうでしょう?
似合うのではないですか?
和モダン3

和モダン4

お、モントルーの湖畔みたいですね。
邸内では、こんなところにスタジオはいかがでしょう?
和モダン5

これも似合いそう。
和モダン8

そしてこんな暖かみのあるスペースもほしいですね。
和モダン6

でもやっぱり和風といえば、これでしょう。
こんなところに住んでほしいなあ。
和モダン7

もう亡くなった人が住む家を考えるのって変ですか?
楽しいですけど!






フレディが日本を好きな理由

フレディはなぜ日本が好きなのでしょうか?
その理由を考えてみます。

1) 日本の美術品や骨董品が好きだから。
ヨーロッパでは19世紀に「ジャポニスム」という、日本文化の流行がありました。
19世紀中頃の万国博覧会に出展された日本の美術品に魅せられて、多くの芸術家が日本の浮世絵や工芸品を真似て、作品を制作しました。
日本美術の影響を受けた作家は、ゴッホやゴーギャン、ルノワール、モネ、ロートレック、クリムト、ドガ、ボナールなどがいます。

ゴッホの「花魁」(おいらん)
ゴッホの「花魁」

クロード・モネも大変な親日家で、自宅に睡蓮の日本庭園を作り、妻に日本の着物を着せていました。
美術を学んだフレディですから、当然モネのことは知っていたでしょう。
それで日本庭園に憧れて、とうとう自宅に造ってしまったのかもしれません。
フレディが歌った「ラ・ジャポネーズ」という歌も、もちろんこの絵と関連していると思います。

モネの「ラ・ジャポネーズ」
モネのジャポネーゼ

フレディもなかなか似合っていますね。
フレディの着物・白黒

2) 日本公演で、日本のファンが大歓迎したから。
クイーンは日本初来日の前年から、アメリカでも人気が出ていましたが、日本ではビートルズ並みのスター扱いだったので、クイーンにとって日本は特別な国になったそうです。
その後も、クイーンは世界で色々なトラブルに遭うこともありましたが、日本は一貫してクイーンを暖かく迎えていましたから、日本に来ると落ち着くという面はあったと思います。
フレディにとっても、同じ黒い髪と茶色い目の日本人の間にいることは、白人の中にいるよりも楽だったのではないでしょうか。

でもフレディは初来日の前から、「一番好きな国はどこ?」というアンケートに「日本」と書いていたので、日本に来てから好きになったのではないようです。他のメンバーは「イギリス」と書いていて、ロジャーは「まだわからない」と書いていました。
フレディは来日する前から、日本に対してそうとうな知識と思い入れがあったようです。

3) 日本は男色に寛容だったから。
キリスト教では男色は罪であり、イギリスでは1967まで罰せられましたが、日本で同性愛が禁じられたのは1872年〜1882年の10年間だけでした。
日本では古代の「日本書紀」の時代から男性の同性愛の記述があり、仏教の僧侶や、平安時代の公家の間でも同性愛が流行していました。江戸時代に書かれた「葉隠れ」は武士道について説かれたものですが、男色の心得についても一章が割かれています。
フレディは武士道に興味があり、宮本武蔵の「五輪書」を読んでいたそうですから、「葉隠れ」にも目を通したのではないでしょうか。

4) 日本とゾロアスター教のつながり。
日本にはゾロアスター教が伝わっており、お盆の送り火や、お正月飾りの「どんど焼き」などの風習に溶け込んでいます。
ゾロアスター教の「善い考え、善い言葉、善い行ない」と共通するものを、フレディは日本人に感じたのではないでしょうか。

5) 日本とペルシャのつながり。
奈良の正倉院には、ペルシャから伝来したガラス器や楽器が収蔵されています。
イギリスの作家、アーサー・コナン・ドイルは、正倉院についての詳細な知識を持っていました。
それをフレディも知ることができたのでしょうか。

6)日本とインドのつながり。
日本は仏教国ですが、仏教はインドから伝来したので、インド育ちのフレディとしては親しみを感じるのではないでしょうか。

7)日本とアフリカのつながり。
フレディが生まれたアフリカのザンジバルには、日本人の「からゆきさん」がいました。
ザンジバルでは日本の「リキシャ」が走り、日本の陶器や絵画もあったようです。
フレディは子供の頃から日本を知っていたのです。

8) 日本は税金が安いから。
イギリスの印税は高くて、98パーセントだったこともあるとブライアンが言っていました。
それで税金を安くするためにミュンヘンやモントルーへ行っていたのですね。
日本の印税が何パーセントなのか、はっきりとした数字はわかりませんが、イギリスより安いことは確かです。

◆こうしてみると、日本とフレディのつながりは随分あるのですね。
フレディは「日本に住んでもいいと思ってる」と言ったことがありますが、当然のことなのかもしれません。
ニューヨークやミュンヘン、モントルーにアパートを持っていたフレディですから、トーキョーにもあったとしても少しも不思議はありません。
私たちがフレディに親しみを感じるのと同じように、フレディも日本に親近感を持ったということですね。
フレディがもっと長生きしていたら、きっと日本にも素敵な住居を持ったことでしょう。





フレディの出自・まとめ

フレディの生い立ちを書いていたら、ずいぶん膨大なことになってしまいました。
17才でロンドンへ来るまでに、広範囲に渡る移動をしているので、様々なテーマに関係しています。
フレディの生い立ちについて、まとめてみます。
フレディの生い立ち


アフリカのザンジバル生まれ
・ ロックンロールのルーツはアフリカのリズム。フレディは生まれながらにそれを身につけた。
・ ザンジバルは黒人の奴隷売買の拠点だった。
・ ザンジバル革命とは、アラブ人やイギリスに支配されてきた歴史から、黒人が起こした独立運動。
    この革命により、フレディ一家は難民となり、ロンドンで移民となった。
・ アフリカは白人の植民地となり、アバルトヘイト(人種隔離政策)が行われていた。
    クイーンも南アフリカでライブを行なったため、体制側の人間と見なされ、バッシングされた。
・ アフリカの飢餓の問題は、白人による植民地化に端を発し、国境が曖昧になったための紛争が起こり、
    換金作物を作るアグリビジネスによって、現地の人は飢えることになってしまいました。
    一時のチャリティーによって解決できる問題ではありません。
・ ザンジバルには猫が多い、猫の島。猫と共に育ったフレディは猫好きになった。
・ ザンジバルには日本人の「からゆきさん」がいた。からゆきさんとは、日本が富国強兵するために送られた娼婦のこと。
    ある猫好きな「からゆきさん」とフレディの家は100メートルの距離だった。
 
インドの全寮制ボーイズスクールで教育を受けた。
・ インドはインダス文明発祥の地で、古代インドの哲学を持っている。
    インド哲学のウパニシャドの根本とは「梵我一如」の思想であり、これは自分の内奥にある「アートマン」と
    つながることにより、宇宙の最高原理である「ブラフマン」と繋がることができるという考えです。
・ インドの思想はアメリカのニューエイジ運動に影響を与え、ビートルズもインドで瞑想の指導を受けた。
・ フレディはインドのヨガを行なっていた。そのため強健で柔軟な身体を保つことができた。
・ フレディは高校時代はボンベイにいたので、「ボリウッド映画」のミュージカルを見たはず。
・ インドには桁外れの大金持ちがいるので、フレディも伝え聞いたでしょう。
・ インドでは価値が流動することがあるので、「価値は固定していない」「価値は自分で決める」「価値は飛躍することがある」
   という考え方を身につけたのではないか。
・ インドはバナナの生産量が世界一なので、バナナが好きになった。生サラダや刺身は食べられなくなった。
・ インドやセイロンで生産される紅茶を、フレディは毎日飲んでいた。特に王室御用達のトワイニングが好き。 
・ インドは「ミラクル」な国である! (奇跡、驚異)

ルーツはペルシャのゾロアスター教
・ フレディはインド人ではなく、ペルシャ人。人種はアーリア人。
・ ペルシャは、古代メソポタミア文明の影響を受け、BC2000年頃からアーリア人が文化の基礎を築いた。
・ ゾロアスター教は、3世紀から7世紀まで、ペルシャの国教だった。
・ 7世紀にイスラム教の迫害を受け、インドに逃れてパールシーと呼ばれるようになった。
・ ゾロアスターはBC1000年〜BC500年頃の人で、ゾロアスター教は後のユダヤ教・キリスト教・イスラム教などに
   大きな影響を与えた。
・ アフラ・マズダーは善きものの最高神であり、アンラ・マンユは悪しきものの最高神。善と悪の二元論。
・ ゾロアスター教の思想には天地創造・光と闇の闘争、天国と地獄、終末思想、最後の審判、救世主、洗礼の儀式などがある。
・ ゾロアスター教の宇宙論では、宇宙には12000年の周期があり、3000年ずつに分かれている。
    今は最後の3000年で、最後には救世主が現われ、最終戦争が起こり、世界は燃える溶鉱の中に溶け去って再生し、
    最後の審判が行なわれる。
・ 人間は死ぬと、肉体と魂が分離する。死後4日目に「チンワトの橋」へ行く。
    ここで生前に行なった善と悪の量が計られて、善が多かった者は天国へ行き、悪が多かったものは地獄へ行く。
    だから人間は「善い考え」「善い言葉」「善い行ない」をするべきということになる。
・ 意外なことにゾロアスター教は日本へ伝わっており、真言宗の「護摩焚き」や、東大寺の「お水取り」、お盆の送り火、
    お正月の松飾りを焼く「どんど焼き」なども、日本の風習の中に溶け込んでいる。
・ 奈良の正倉院にはペルシャから伝来したガラス器や楽器が収蔵されており、ペルシャ人も渡来していた。
    聖徳太子の母親はペルシャ人だという説や、平家はペルシャ人の末裔ではないかという説がある。

◆という訳で、フレディの生い立ちには、膨大なテーマが関わっていることがわかりました。
  とにかく、フレディはゾロアスター思想を持つペルシャ人であり、
  アフリカの生命力とリズム感を身につけ、
  インドのヨガを体得してロンドンへ渡った超人なのです!
アフリカ・インド・ペルシャ・イギリスのハイブリッドなのです!
アフリカ・中近東・アジア・西洋の混合なのです!
   つまりフレディの中で地上最高のmixが行なわれたために、あのような音楽が生まれたのですね!

  

「ロケットマン」

映画「ロケットマン」を見ました。
エルトン・ジョンの伝記映画です。
まずエルトン・ジョンとフレディが良く似ていることに驚きました。
2人とも同性愛で、ラジオから聞こえた音楽をすぐにピアノで弾くことができます。
もちろん2人とも優れたボーカリストで、歌を作ります。
大のパーティ好きで、買い物中毒で、恋愛中毒です。
エルトンはアル中でコカイン中毒でしたが、フレディはそれほどでもなかったかな。
ショービジネスの世界とは、それほど大変なところなのではないでしょうか。
2人とも子供の頃は寂しい思いをしていて、愛を求めています。

ハメを外すことにかけては、エルトンはフレディに叶わなかったとか。
フレディとエルトン1

これほどまでに似通った2人だったので、お互いに心を許せる相手として、親友だったそうです。
これはエルトンのコンサートにフレディが飛び入りしたところ。
フレディとエルトン2

フレディとエルトンを繋ぐ重要な人物がいます。
エルトンのマネージャーのジョン・リードです。
彼は1970年から1975年まで、エルトンと恋人関係にありましたが、1975年に同居をやめてからも1998年まで、マネージャーをつとめていました。
1975年にエルトンが休暇を取ったため、ジョン・リードはクイーンのマネージャーも兼ねることにしましたが、ポール・プレンターとのトラブルにより、1978年1月に契約は解消されています。
ジョン・リードは大変やり手の人物で、エルトンを大物に仕立て上げることに成功しますが、エルトンからお金を搾り取ることにも長けていました。映画の中でも、リードは「エルトンが死んでからも収入の20パーセントが入ることになっている」と言っていたので、あまりの強欲さにぞっとしました。
ジョン・リードはエルトンと愛情がないのに付き合っていたので、まだウブだったエルトンは深く傷ついてしまいました。
リードはエルトンと付き合うことで、エルトンを自分に繋ぎ止め、歌を作らせては自分の懐にお金が入るようにしていたのです。
音楽業界とは、そのような恐ろしい人物がいるところではありますので、どうぞご用心を!
エルトンとジョンリード

そのうえジョン・リードは、エルトンのお金を横領していたことが1998年に発覚し、エルトンは2000年にリードを訴えました。
リードが約4億4000万円を返済することで和解しましたが、4億円以上も横領していたとは!
エルトンは長年信頼していた人に裏切られ、深く深く傷ついてしまいました。

まだ若いフレディとジョン・リードが何もなかったと思えますか?
ご想像にお任せします。
フレディの名作「ミリオネア・ワルツ」は、ジョンリードのことを歌っているといわれます。
だってこれラブソングでしょ?
フレディとジョンリード

フレディが亡くなった時に、エルトンは大変強いショックを受けました。
アル中でコカイン中毒だったエルトンは、大量の薬物を摂取した後に、自宅のプールに落ちたこともあり、ついに1990年にアルコールと薬物を断ちました。それ以来、28年間一切の酒とドラッグを口にしたことはないというのですから、偉い!!
28年間といえば、ちょうどフレディが亡くなってからの年数ですね。
エルトンは2度と酒やドラッグの誘惑には負けないと、フレディの魂に誓ったのではないでしょうか?

エルトンは、フレディが亡くなった後に追悼の言葉を捧げています。
「フレディ・マーキュリーは、信じられないほどに革新的な歌手、バンドのフロントマンでした。
僕の大親友で、彼と出会えたことは恵みでした。
とても面白く、並外れていて、それにすごく優しかった。
偉大なミュージシャンであり、ユーモアのセンス、並外れたセンスがありました。
ライブエイドのステージはまさに圧巻でした」

フレディが亡くなった後のクリスマスに、フレディからのプレゼントがエルトンのもとへ届きました。
それはエルトンが好きな画家の絵で、フレディからのメッセージが添えられていました。
「親愛なるシャロンへ。きっと喜んでくれると思ってこの絵を贈ります。メリーナより愛を込めて」
(シャロンはエルトンのニックネーム、メリーナはフレディのニックネーム)
フレディは死の淵にあっても、親友が喜んでくれることを考えていたのですね。涙
フレディとエルトン2

エルトン・ジョンの映画を見ても、ついフレディとの関連ばかり考えしまいます。
ちなみに、映画にはフレディは出てきません。
でもエルトンとフレディが生きた1960〜70年代の様子を窺い知ることができます。
エルトンは1947年3月生まれ。
フレディは1946年9月生まれ。
ジョン・リードは1949年9月生まれです。
3人とも同性愛なのに、なぜフレディだけが早世したのか不思議です。
エルトンは2014年に同性の恋人と結婚しました。
きっとフレディも喜んでくれていることでしょう。



フレディと移民・難民

ご存じのように、フレディはザンジバル革命から脱出した難民だったことがあり、ロンドンで移民として暮らすことになりました。
ザンジバルからは命の危険を感じつつのエクソダス(国外脱出)でしたし、移民としてゼロから生活を立て直すことは、どんなに凄まじい苦労だったことかと胸が痛みます。
たとえイギリスの植民地からの移動だったとしても、ロンドンでは移民としてみなされ、民族的差別も受けながらも、フレディはあらゆるハンディを跳ね返して成功を掴みました。
海外の移民・難民については、私にはとても語る資格はないので、日本の移民について考えてみたいと思います。

ロンドンに行くと、街中には沢山の外国人がいて、一体どこにイギリス人がいるのかなと思います。パリでもそうです。
ロンドンの移民は現在50パーセントぐらいだそうです。半分は移民なのですね!
日本にはまだあまり移民はいない、と思っていましたよね、今までは。
でもこの頃、町で外国人を見かけることが多くなったと思いませんか?
とくにコンビニで働いている外国人をよく見かけませんか?
日本にはどのくらいの外国人がいるのでしょう?
いま日本にいる外国人は増加の一途をたどっていて、250万人ぐらい在留しています。
中国、韓国、フィリピン、ベトナムなどのアジア人が多く、イラン人は減少しています。
250万人のうち、118万人が何らかの仕事に就いており、コンビニでお世話になることも多くなってきたのです。
日本には移民が少ないと思っていたのは、実はとんでもない誤解で、なんと日本は世界で5番目に外国人が多い国になっていたのです!
250万人というのは、名古屋市の人口を越え、彼らは製造業や小売業、サービス業などに従事しており、もはや日本はすでに外国人の労働力がなければ成り立たない経済構造になっているのです!

外国人技能実習生は25万人が在留しており、2020年までに留学生を30万人受け入れることとして、
政府は積極的に外国人の受け入れを促進しています。
しかし日本では彼らを移民としては捉えていません。
実は国際的に「移民」の定義は統一されていないのです。
国連などの国際機関では、1年以上外国で暮らす人は全て「移民」に該当すると解釈しています。
すると日本に住んでいる250万人の在留外国人は、ほぼ全て「移民」ということになります。
しかし日本は2016年に、独自に「移民」を定義付けました。
その定義とは「『移民』とは、入国の時点でいわゆる永住権を有するものであり、就労目的の在留資格による受け入れは『移民』には当たらない」というものでした。
これは日本国際交流センターの毛利敏浩氏によると「世界的に見ても例のない奇妙な」定義だという。
日本では、入国の時点で永住権を持っていなければ、たとえ10年以上日本に居住して労働し、年金や保険料を納めて、最終的には永住権を獲得した人でも「移民」ではないということになるのです。確かに奇妙なことですね。
日本では、とにかく「移民」という言葉を避けて「定住外国人」と言ったりするようです。
どうしてそれほどまでに「移民」を避けるのでしょうね?

移民の中には「外国人技能実習生」の待遇に対する問題もあり、実習生のパスポートを取り上げて、時給300円で働かせたりするので、これはもはや人身売買だという声も上がっています。
また、日本はなかなか難民を受け入れないので、難民申請をしながら何年も認められず、法的立場が定まらないままに生活している人たちが全国に数千人いると言われています。
彼らは働くこともできず、健康保険に入ることもできません。
2017年に難民認定された人は、わずか20人でした。

日本における移民・難民は本当に難しい問題ですが、これから国内にますます外国人が増えて行くことは確かです。
私たちもフレディが空港で働いていた移民だったことを思えば、何とかもっと彼らを理解していかなければならないのではないでしょうか。

移民について、おすすめ本
コンビニ外国人

2018年のフレディの誕生日を祝うヒースロー空港の荷物係たちのダンス
空港のダンス
これはとってもイイね!
動画はこちらで見られます。
https://adgang.jp/2018/09/165402.html



ロンドンのLGBTとフレディ

プロムス

LGBTについては、また改めて書こうと思うのですが、ロンドンからの情報が入ったので、まずそれを。
ロンドンでは夏に「プロムス」という音楽祭が開かれます。
プロムスとは、プロムナードコンサートの略で、ぶらぶら歩きながら聴けるコンサートという意味です。
会期は2ヶ月に及び、100年以上の歴史を持つ、世界最大の音楽祭です。
私も8月にロイヤルアルバートホールでプロムスを聴いたのですが、この9月14日に最終日を迎えました。
最後のコンサートは Last Night of the Proms という特別なプログラムで、日本でいうと紅白歌合戦のような国民的行事になっています。
そのコンサートの最後には、「ルール・ブリタニア」やエルガーの「威風堂々」が演奏され、客席ではイギリスの国旗を振って応援します。そして「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」の時にはみんな起立します。
ところが今年は初めてギリス国旗ではなく、七色のレインボーフラッグだったそうで、これはLGBTを表しています。
性の違いは2種類ではなく、七色のような違いがあることを認めようという応援だったのです!
これをフレディが知ったら、嬉しかったのではないでしょうか?!
そもそも、フレディたちがLGBTを隠さなくなったことで、一般の人にも理解が広まってきたので、現在のように理解が進んできたのですよね。フレディのおかげで、幸せな同性カップルが誕生するようになったと言ってもよいのではないでしょうか。

ヨーロッパのキリスト教社会では、同性愛は犯罪とされていて、なんと処刑の対象になっていました。
イギリスでも処刑の歴史があり、最後の処刑が行われたのは1836年のことでした。
1863年には同性愛者の死刑は禁止され、「反自然的な行為」は10年以上の懲役または終身刑となります。
イギリスで同性愛が犯罪ではなくなったのは、なんと1967年になってからでした! (イングランドとウェールズ)
フレディがロンドンに来たのは1964年ですから、当時はまだ犯罪とされていた時代だったのですね!

その後、2005年になると、同性でもほとんど結婚と同じ権利を持つことができる「シビル・パートナーシップ」が導入されます。
そしてついに、2013年に同性間の結婚を認める法案が成立、翌2014年に施行されました。
これをフレディが知ったら、どんなに喜んだことでしょう!
2018年にはエリザベス女王の親戚、マウントバッテン卿が同性と結婚しました。

世の中からあらゆる差別がなくなるように願っています。

ザンジバルの「からゆきさん」とフレディ

フレディが生まれたアフリカのザンジバルには、なんと日本人の「からゆきさん」がいたという。
「からゆきさん」とは「唐行きさん」のことで、明治から昭和にかけて、海外へ働きに出た日本人娼婦のことを指します。
このことだけでも驚きですが、なんと調べてみると、からゆきさんが住んでいた家と、フレディの家は100メートルぐらいしか離れていませんでした。
からゆきさんは猫を何匹も飼っていたので、きっとフレディ少年は猫を見に行って、からゆきさんと会ったことがあるに違いないと確信しました。
フレディが日本を好きなのは、子供の頃に日本人を見たことがあったからなのです!
それでは順を追って説明しましょう。

日本は明治になって鎖国が解かれ、海外と交流するようになりました。
明治26年(1893年)に、日本郵船が最初の遠洋航路、横浜〜ボンベイの路線を開きます。
日本とアフリカの貿易は、ボンベイ経由で行われました。
これで日本とボンベイ(インド)〜ザンジバルのつながりが明らかになります。

日本郵船がインドへ行く前に、シンガポールに停泊しますが、
日本が開国したばかりの明治4年には、既にシンガポールに日本人の「からゆきさん」の姿がありました。
明治になって、日本は海外へ進出していきますが、まず真っ先に「からゆきさん」たちが送られ、その後に店が出来、会社の出張所ができて、船が寄港するようになり、その土地が繁盛するようになっていきます。そして最後に日本の大企業がやってくるのです。
からゆきさんは日本の海外進出の先兵と位置付けられています。
また日本の外貨獲得のために働かされたとする説もあります。

シンガポールのからゆきさんは、明治の後期には1000人を数えるほどに増えていました。
そしてシンガポールを根拠地として、インドのボンベイやアフリカ東海岸へ遠征していきます。
1903年にはアフリカ南端のケープタウンにまで到達していました。クイーンも公演した南アフリカ共和国ですね。
ザンジバルでは1890年代から、からゆきさんの活動が始まり、1920年代には隆盛を誇り、1930年代から次第に衰退していき、第二次世界大戦後には停止していたようです。
ザンジバルのからゆきさんの家
ここがザンジバルのからゆきさんが住んでいた家です。
ザンジバルを初めて訪れた日本人は、からゆきさんだったのです。
からゆきさんは「酒場」や「珈琲店」を経営したり、そこで働いたりしていました。
今でも「ジャパニーズ・バー」というお店が残っているそうです。


からゆきさんとは、主に長崎県などの貧しい漁村の娘さんが、「海外で働くとお金が儲かる」と、うまく誘われて連れて行かれ、実際に行ってみると普通の仕事ではなく、売春をさせれらたというケースが多かったそうです。
娘さんの中には、あまりのショックに気が狂ったり、自殺した人もいたそうです。
明治の娘さんが自分でいきなり外国へ行くことは考えられず、やはり斡旋する業者がいました。
その業者は案内料として、娘たちに多額の借金を負わせ、なかなか日本に帰れないようにしていたのです。

からゆきさんの中には逞しく生き延びて、自分が酒場などを経営するようになった人もいました。
それがザンジバルの「おまきさん」です。
おまきさんは1890年(明治23年)生まれで、しばらくシンガポールで働いた後、24・5才の時にザンジバルへ渡りました。
1915年ごろからストーンタウンで商売をし、1920年代にはかなり繁盛していたそうです。
1930年代には、港に寄港する船に日用雑貨品を売る仕事をしていましたが、第二次世界大戦が起こると、日本はイギリスの敵国となったため、おまきさんは収容所に送られてしまいました。(1980年〜1964年まで、ザンジバルはイギリス領でした)
収容所といっても軟禁状態で、単に放置されていたような状態だったそうです。
そして彼女は戦後も日本に帰らず、ザンジバルに残って年を重ねていきました。
おまきさん
これがザンジバルの「おまきさん」です。30才ぐらいの時。
おまきさんは1959年に、日本へ帰国しました。

ストーンタウンといえば、フレディが住んでいた町。
しかも地図で調べると、フレディの家と、おまきさんの家は僅か100メートルぐらいの距離しかありませんでした!
フレディが生まれた1946年から、フレディがインドへ行く1954年まで、2人は近所に住んでいたことになります。
おまきさんは1915年頃からストーンタウンに住んでいたので、日本人として有名だったそうです。
フレディ少年が町を駆け回っていた1950年頃、おまきさんは60代に差しかかり、つつましい暮らしをしながら、数匹の猫を飼っていました。
ザンジバルですから、猫はどこにでもいたでしょうけれど、猫がいればフレディ少年はつい見たくなってしまうでしょう。
おまきさんは親分肌の面倒見の良い性格だったそうですから、猫好きな少年がいれば、可愛がりたくもなるでしょう。
おまきさんは自分の猫たちに日本の名前をつけていましたから、その名前をフレディ少年もきいたことがあったかもしれません。
後にフレディも自分の猫に「ミコ」という日本名を付けたり、「キラークイーン」にもミナ(マイナ)という芸者名が出てきますよね。
実際に2人が接触したという証拠はありませんが、フレディが日本を好きになった淵源がそこにあるのではないかという気がして仕方がないのです。
猫が好きな優しい日本人のおばさん・・・それがフレディの日本人に対する原イメージになったのかもしれません。

ザンジバルでは、1950年ごろまで「リクショウ」と呼ばれる「人力車」が走っていました。
人力車は明治の初めに日本人が発明したもので、ストーンタウンの狭い路地を走るにはうってつけだったことから、政府のイギリス人や外交官が愛用していたそうです。
インドでも「リキシャ」が沢山走っています。

ザンジバルにはペルシャとのつながりもあります。
ザンジバルとは、ペルシャ語の「ザング(黒人)」と「バル(海岸)」が結びついたものと言われます。
歴史的には、8〜9世紀にペルシャ湾岸からイスラム教徒のペルシャ人が、東アフリカ沿岸部に沢山移住してきました。
15世紀までにはペルシャ人のスルタン王朝ができましたが、16世紀にはポルトガル領となります。
フレディ家も、まるで運命の糸に操られるかのように、インドからザンジバルへ、そしてロンドンへとつながっていくのですね。

ところで、からゆきさんは「娘子軍(ろうしぐん)」とも呼ばれます。
これは明治政府が富国強兵を行なっていた時代に、娘たちをも軍隊になぞらえたのでしょうか。
そもそも、娘たちを東南アジアからインド、アフリカへ連れて行き、売春婦として働かせることを発案したのは誰なのでしょうか?
娘たちを斡旋する女衒の組織がありましたが、開国してすぐに日本人がアフリカまで販路を広げることが可能なのでしょうか?
娘たちを軍隊の先兵のようにして海外へ進出させ、その後に日本の企業が支店を開いていく。
これは一般の日本人が考え付くことではありません。
そしてからゆきさんたちが働いた莫大なお金は、一体どこへ行ったのでしょうか?
からゆきさんたちが働いていた町は、シンガポール、香港、ボンベイ、ザンジバルのストーンタウン、南アフリカのケープタウンなどでした。これらの町に共通することは何でしょう?
そう、これらの町は全てイギリス植民地だったのです。
当時、アジア各国を植民地支配していた欧米の軍隊からの強い要請があったところへ、からゆきさんを派遣していたというのですから、日本のどこが派遣していたのか、おおよその見当はつきますよね。
日本のからゆきさんは、人身売買として世界から非難され、1920年にイギリス領マラヤの日本領事館は、娼婦の追放を宣言しました。
そして、おまきさんがザンジバルから帰国したのは、じつに1959年のことでした。

参考本「ザンジバルの娘子軍」
ストーンタウンの地図が載っています
ザンジバルの娘子軍














フレディは歯が多い?

フレディはなぜ歯が多いのかって?
ネットではよく、フレディは過剰歯で、前歯の裏に余分な歯が4本生えていたと書かれていますよね。
本当でしょうか?
よく見てみましょう。
確かに下の前歯の横に、余分な歯が生えているように見えますが、これは犬歯が歯列からはみ出している「叢生」という状態だそうです。歯の専門家によると、下顎の発達が歯の大きさとアンバランスな時に生じるそうです。
フレディの歯

上顎はどうでしょう?
この写真ではっきりわかりますが、上の前歯の他に、過剰な歯が生えているということはありません。
こんな写真を出してごめんね、フレディ。
フレディの歯2

どうやらフレディの歯は「異常に目立つ」という英語が、「過剰である」と間違って訳され、それがそのまま拡散されてしまったようです。
フレディは過剰歯ではありません!
上顎前突なだけです!

他にも、晩年にフレディが足を切断したという話が出回っていますが、これも英語の訳の間違いから広まったようです。
フレディが足を切断していないことを検証した人がいます。
フレディは足を切断していません!

フレディがダイアナ妃と親交があり、ダイアナ妃を変装させて、おしのびでゲイバーに遊びに行ったという話も見かけますが、これもピーター・フリーストーンが否定しています。

他にも間違い探しをすると面白いかもしれませんね。

フレディの音楽にはゾロアスターの影響が。

アフラ・マズダー

フレディは敬虔なゾロアスター教徒だったという説があります。
https://www.aboutfreddiemercury.com/farrokh-bulsara-der-zoroastrier/
ここに書かれていました。元はドイツ語のようです。

一般にはフレディのイメージとは、エキセントリックなトラブルメーカーで、執念深くヒステリックなドラッグ野郎で、金遣いが荒かったとされていますが、それは間違いだ! というのです。
実はフレディは敬虔なゾロアスター教徒の生活を送っていました。
第一、フレディは毎年アルバムを制作してはツアーに出ていたのですから、毎晩遊びまわるような時間は全くなかったのです。
Album Tour, Album Tour, Album Tour!! ですよね。

フレディの生活とは、
・第1に、スタジオでの曲作りや打ち合わせで忙しい。
・毎日のヨガと食事療法を行なう。
・毎晩のリラクゼーション・プログラム(ヨガ)
・しばしばクラシック音楽を聴く
・ペルシャ古典文学を読む。→これは歌作りのインスピレーションになった。
・ゾロアスター教の礼拝を行なう。
 定番の祈りと、聖典「アヴェスター」の精読。これは誰もいない場所で行なった。

とてもロックミュージシャンの生活とは思えないような、かなりストイックな行者のような生活ですね。
これを生涯続けていたのかはわかりませんし、ツアーの間はこれほどはできなかったでしょう。
ジム・ハットンによると、フレディは熱心なゾロアスター教徒ではなかったといわれますが、礼拝と祈りは誰もいない所で行なうので、ジムは知らなかったのでしょう。ジムの知らないフレディの姿です。
ジムは、フレディがベッドの横で何かを唱えているのを聞いたが、内容はわからなかったと書いていますが、やはりゾロアスター教の祈りだったのですね。
フレディの葬儀も、フレディの遺志により、ゾロアスター教式で行なわれました。

マスコミによると、フレディは派手に遊びまわって毎晩違う男と寝たと書き立てられましたが、それはマスコミにタレ込んだポール・プレンターの嫉妬心から出た妄想かもしれません。ポールは情報を提供して500万円ぐらい貰いましたし、マスコミ側はとにかく売れる情報が欲しいわけですからね。
フレディの死後、ロジャーはそのような噂をきっぱりと否定し、フレディはそんな人ではない、そんなことを言うやつらとは断固として戦う、自分は立ち上がる! とテレビで宣言した姿には、私も涙を誘われました。
フレディは恋多き人でしたが、本当に好きな人と付き合っていたのかもしれません。
盟友のロジャーなら、本当のことを知っていたはずです。

マスコミによって広められたフレディの姿に、私たちも毒されているのかもしれません。
フレディの真の姿は、もっと真面目で純粋な努力家だったのではないでしょうか?
私たちはフレディの名誉回復をしなくてはならないのかもしれませんね。
フレディの顔
そうでしょう〜

フレディはパーティが好きで、派手好きだったとされていますが、それはみんなを楽しませるために行なったことで、自分は楽しそうにしているみんなを見ているのが好きだったそうです。ゾロアスター教では、他人に善い行ないをすべしとしているので、フレディはその通りにしていたのです。
よく沢山の買い物をして浪費したようですが、それもみんなに贈り物をするためで、人を喜ばせるためでした。

ロンドンのフレディのヴィラとは、ガーデンロッジのことでしょうか。
1902年のナショナル・ジオグラフィックによると、その家にはゾロアスターの古い絵と、多くの光の源(?)があり、ゾロアスターのライフスタイルの影響があるそうです。

フレディの音楽にも、ゾロアスターの影響が現われています。
セカンドアルバムのホワイトサイド、ブラックサイドや、ホワイトクイーンとブラッククイーン、また白黒の衣裳や、フレディの黒いネイルとブライアンの白いネイルなどは、ゾロアスター教の二元論を表しています。
さらに、「I was born to love you」には、白い服や緑の色使い、鏡を使うこと、ボウルの火、結婚のダンス、初めての公的なキスなど、ゾロアスター教の結婚のシンボルが多用されているそうです。

フレディはゾロアスター教徒のパールシーでした。
毎日ヨガを行ない、求道者的な面がありました。
よく音楽や文学、美術に親しみ、美と芸術を愛したボヘミアンでした。
彼は「フレディ・マーキュリーとは外側の仮面であり、本当の自分との間には壁を作っているので、誰も自分の中には入れないし、本当の自分を知ることはできない」と言っています。
人々はマスコミの垂れ流すように、面白おかしくフレディを語ってしまいますが、
本当のフレディとは、美と芸術を愛するパールシーなのではないでしょうか?






フレディはなぜ体が柔らかいのか?

フレディはとても体が柔らかくて、とくに背骨がしなやかに反りますよね。
あれは生まれつき、とっても柔らかいんだろうなあと思っていたのですが、実は毎日ヨガを行なっていたからだったのです!
しかも朝と晩に行なっていました。
そのおかげで、あの柔らかさを保っていたのですね。
フレディはストイックな努力の人で、お酒は普通に飲みましたが、ドラッグはやらなかったそうです。

この写真はヨガのポーズに似てるなと思っていました。
やはりそうだったのですね。
おっ、後ろのアンプはマーシャルです。
ブライアンは普段はマーシャルではなかったので、珍しいですね。
ヨガのポーズ

このポーズも、そうとう体を鍛えている人でなければできません。
フレディはヨガでインドと繋がっていたのですね。
のけぞりのポーズ

「スキャンダル」のPVの中でも、フレディはヨガのポーズをしています。
フレディはステージでヨガのエクササイズをしていたのですね!
私もたまにヨガをしますが、明らかに翌日の体調が良くなります。
もっと真面目にヨガをやろうかな。


フレディとゾロアスター教

フレディはパールシーという、ペルシャ人のゾロアスター教徒の家系に生まれました。
本人はあまり熱心な信者ではなかったといわれますが、逆に熱心な信者だったという説もあります。
ネットではゾロアスター教とは、マイナーな宗教であり、フレディはマイノリティーだったということになっていますが、果たしてゾロアスター教とはどのような宗教だったのでしょうか?

ゾロアスター教は、古代イランの多神教をゾロアスターが体系付けたものとされています。
しかしゾロアスターは実在の人物とされるものの、その年代は紀元前1000年〜紀元前500年ぐらいまでという曖昧なもので、どこで出生したのかもはっきりわかっていません。
古代のイランでは多くの神々、とくに太陽神ミトラが崇拝されていましたが、ゾロアスターはアフラ・マズダーを最高神とし、その下に聖なる七大天使(アムシャ・スプンタ)を従えているとしました。
アフラ・マズダーは善きものの最高神であり、それに対して悪しきものの最高神がアンラ・マンユです。
悪神アンラ・マンユは、悪魔ダエーワを通して悪の活動をするので、人間はこの悪と戦っていかなければなりません。
これがゾロアスター教の二元論です。
フレディは「ホワイトクイーンとブラッククイーン」、白黒の衣裳などで、この二元論を表現していると思います。
フレディ白黒
ま、そういうことだね。

ゾロアスター教の教え。善い考え、善い言葉、善い行いと書かれている。
ゾロアスター教の教え


人間は死ぬと、肉体と魂が分離します。
魂は死後3日間は、死者の近くにいますが、4日目に「チンワトの橋」へ向かいます。
ここで生前の行ないの、善と悪の量が計られて、善が多かった魂は「チンワトの橋」を渡って天国へ入りますが、
悪の方が多かった魂は橋から落ちてしまい、地獄へ行くことになります。
フレディはインタビューで、「死んだら天国なんか行きたくない、地獄の方が面白そうだ」と言っていましたが、それはもちろんゾロアスター教の教義を知っていたからですね。
フレディも4日目に「チンワトの橋」へ行ったのでしょうか?
(最近、ペットが死んだ後に、ペットが天国の入り口の「虹の橋」のたもとで、飼い主に再会することを待っているという話が広がっていますが、これはゾロアスター教の「チンワトの橋」から来ていると思います。)

ゾロアスター教の教義には天地創造、光と闇の闘争、天国と地獄、終末思想、最後の審判、救世主、洗礼の儀式などが含まれており、ゾロアスター教の後に生まれたユダヤ教、キリスト教、イスラム教などに多大な影響を与えました。
ゾロアスター教は、今の世界で最も多く信仰されている現代宗教の親のような存在だったのです!  つまり本家本元です!
一時はペルシャのササン朝時代に国教にもなり、決してマイナーな宗教だったわけではありませんでした。
古代ギリシャのピタゴラスやプラトンにも影響を与えています。

ゾロアスター教寺院の内部
ゾロアスター教寺院の内部


ゾロアスター教の宇宙論では、宇宙には12000年の周期があり、3000年ずつ4つの時代に分けられています。
はじめの3000年で、目に見えない霊的世界(メーノーグ)が創造されました。
その次の3000年で、目に見える物質世界(ゲーティーグ)が造られます。
そして次の3000年では、アンラ・マンユによって宇宙が攻撃され、汚されます。原人間ガヨーマルトが殺害され、人間が生まれます。
 全人類は光と闇の闘争に、否応なく参加させられることになります。人間は皆「光の戦士」なのです!
最後の3000年が今の時代で、ゾロアスターの誕生に始まり、宇宙は徐々に浄化されていきます。
 そして最後の57年間を救世主が統治した後、最終戦争が起こり、世界は溶鉱の中に溶け去って再生し、新しい宇宙の更新が行なわれます。世界の終末では、最後の審判が行なわれ、生者も死者も改めて選別され、新しい善なる宇宙で永遠の命が与えられます。
 ということは、最後の審判の時に、フレディも私たちもみんな一緒に裁かれることになるのですね! わお!!

ゾロアスター教の聖典は「アヴェスター」ですが、これはゾロアスターの死後の、紀元後4〜6世紀頃に編纂されたものになります。
「アヴェスター」の一部で、「ヤスナ」72章のうち17章がゾロアスターの自作とされているのですが、それ以外の大部分は他の人が編纂したものになります。
アケメネス朝が滅亡した時に大部分が失われ、その後修復されたものの、イスラム教時代になると4分の3が失われてしまいました。
ゾロアスター自身の言葉として伝わるものは少なく、もともと牛の皮に書かれたものなので、時代が経ると判読も困難になるでしょう。
だからフレディに関連して問いたいのは、ゾロアスター教で「同性愛の選択は悪」とされているのは、誰の言葉で、いつの時代に定められたものなのか、ということなのです。
ゾロアスター教がペルシャの国教になると、生活宗教として民衆の生活を律するものとする必要があったため、後から付け加えられた可能性もあります。
「アヴェスター」に書かれているとしても、それが本当にゾロアスターの伝えたい真実であったのかどうか、克明に分類することは難しいでしょう。
どなたか詳しい方は教えてください。よろしくお願い致します。

ゾロアスターの聖なる火
ゾロアスターの聖なる火

ゾロアスター教は、西に伝わると古代ギリシャに影響を与え、また東のインド、中国から日本にまで伝わりました。
飛鳥時代や奈良時代には、ペルシャ人が渡来していたことがわかっていますので、日本の建国に関わっていることになります。
あくまで仮定ですが、平家はペルシャ人の末裔ではないかとする説や、聖徳太子の母親はペルシャ人だったという説もあります。
仏教の真言宗の「護摩炊き」や、東大寺の「お水取り」、お盆の送り火、お正月の松飾りを焼く「どんど焼き」なども、日本の風習の中にゾロアスター教(拝火教)が溶け込んでいます。
私たちも知らないうちに、お盆の送り火を炊いたりして、ゾロアスター教徒をやっていたわけですから驚きですね!
東大寺の「お水取り」はお水とはいえ、内容は「火祭り」で、大きな松明を燃やして、参詣者が火の粉を浴びると、その年は病気にならないとされます。私も行ったことがありますが、火の粉は熱くて恐いので逃げてしまいました。3月の春分のお祭りですね。
その他にも「人形供養」など、大事なものを火にくべて、感謝と浄化を行なうというのは、日本人の心性ではないでしょうか。
お正月に神社で、前年のお札をやお守りを燃やしていますね。
また、オリンピックの聖火リレーも、ゾロアスター教から来ているそうです。

フレディは日本が好きでしたが、日本にはゾロアスター教が伝来し、人々の生活に溶け込んでいることを知っていた、或いは感じ取ったのではないでしょうか?
何かペルシャと日本に共通するものがあることを知っていたのではないでしょうか。
日本の着物の帯などには、よくペルシャ文様が取り入れられていますし、私もイランで買ってきた銀の燭台や、青いガラスの花瓶を大切にしています。
だから、日本人がフレディを好きなのは、日本人とペルシャ人に共通するものを、みんなが感じ取っているからではないでしょうか!?
日本人はフレディに親近感を感じてしまうのです。
フレディの遠い先祖が、日本に来たこともあったかもしれないでしょう?!
私は自分がペルシャを好きなのは、きっと先祖のDNAにペルシャが混じっているからではないかなと思っています。
日本人にはきっとそういう人が沢山いると思います。




ペルシャのフレディ

フレディの一族はゾロアスター教徒のパールシーで、先祖はペルシャの出身です。
もとはペルシャに住んでいたのですが、700年頃にイスラム教の迫害に会い、インドへ逃れてきました。
パールシーは代々父親がゾロアスター教徒でなくてはならず、他民族との混血を避けてきたので、現在のアラブとの混血が進んだイランよりも、ペルシャの純粋な血筋が保たれているといわれます。つまり純粋なアーリア人の血統なのです。
確かにテレビで、サッカーのイラン代表の面々を見ると、フレディの顔立ちとは違います。
私たちはフレディのおかげで、純粋なペルシャ人(アーリア人)のお顔を拝見することができたのです。

私は20年ぐらい前にイランへ行ったことがあるのですが、
今までに訪ねたことのある国の中で、イランは最も印象的だった国です。大好きな国です!
フレディの出身については、1975年の初来日の頃には、ただイギリス人とされていたので、
イギリス人にしては色が黒いなとか、イギリスにも移民が多くて混血したのかなと思った程度でした。
それが本当はアフリカ生まれのインド育ちで、ゾロアスター教のパールシーであることを知ったのは、いつだっただろうか?
フレディが亡くなってからだと思うし、はっきりと認識したのは最近のことかもしれない。
アフリカとインドもすごいけれど、とくにペルシャというのが私には激しく惹きつけられる要因だったのです!
「アフリカ生まれで、インド育ちのペルシャ人!!」これはまさに完璧に理想的な人物であり、忘れられなくなりました。

なぜそんなにペルシャが好きなのか?
ペルシャは、世界最古といわれるメソポタミア文明の影響を受け、紀元前2000年ごろからアーリア人が文化の基礎を築きました。
長い歴史の中で、多くの民族による様々な王朝が興亡を繰り返してきたのですが、
紀元前6世紀にはダレイオス1世によってアケメネス朝が成立し、ゾロアスター教の教義が整えられます。
3世紀から7世紀のササン朝に至るまで、ゾロアスター教はペルシャの国教となり、思想的柱になりました。
ペルシャで最も面白いのはこの時期で、その後7世紀からはイスラム勢力の統治下に入ってしまいます。

ペルセポリスは紀元前500年頃に、ダレイオス1世が建設したアケメネス朝の都。
本当に2500年の悠久の時を感じさせられます。
ペルセポリス1

ペルセポリスの庭ではライオンが飼われていました。
紀元前331年、アレクサンダー大王によって焼かれ、破壊されて廃墟となりました。
ペルセポリス2

時代は下り、イスファハンは16世紀から18世紀にかけて栄えた、サファヴィー朝の古都です。
「世界の半分」といわれた華麗なペルシャ建築には驚嘆します。
イスファハン

ペルシャ式庭園には、中央に池が作られ、周囲に植物が繁茂しています。
これは天国の様子を地上に投影したもので、まさに地上の楽園なのです。
こうした庭園にはとても惹きつけられますし、地下に作られた池も神秘的です。
雨が少なく、乾燥しているので、水を大切にしています。生命の源だからですね。
フレディは自宅に日本庭園を作りましたが、ペルシャ式庭園も良かったのにねえ。
ペルシャ式庭園

イランに行って面白かったのは、ペルシャの古い建築が日本に伝わり、天井の作り方などがそっくりだったこと。
日本では飛鳥時代、奈良時代からペルシャとの交流があり、正倉院にペルシャのガラス器などが収められていますね。
そして西洋にもペルシャ建築が伝播して、ドイツの中世のお城の天井がそっくりだったのを見た時(ヴァルトブルク城)、
ペルシャ文化の偉大さに感動したのです。
古代ペルシャからの偉大な文化を背負ったフレディを見た時、まるでペルシャの王子が蘇ったかのように感じたのは、
単なる私の妄想なのでしょうか ?
クイーンの音楽がイランでも販売されたことはありますが、フレディはイランへ行ったことはないようですね。
フレディがイランへ行ったらどうだったでしょう?
「ペルシャのフレディ」なんて素敵だなあ!

なんと「プリンス・オブ・ペルシャ」という映画がありました。
このプリンスは武闘派なので、ちょっとイメージとは違うけど。
プリンス・オブ・ペルシャ


ちなみに私のハンドルネーム「楽園のペリ」のペリとは、ペルシャの妖精の名前です。
フランスの画家モローが描いたペリの絵が好きで、自宅に飾っています。
モローのぺり










もしもフレディに隠し子がいたら

「もしもフレディに隠し子がいたら」なんて、週刊誌の見出しみたいでスミマセン。
ネットの恐ろしいところは、誰かが「フレディに隠し子がいたんだよ」なんて言うと、それがすぐに拡散されてしまうところ。
でもこれは、もしもの話なので、フレディには隠し子はいません。いや、多分いないでしょう。
でももしいたら面白いなあと思って。
もしいたら、こんな感じなのかなあ、とか。
フレディの甥
これはフレディの甥、ジャマル・ズーク君です。
左は妹のカシミラさん。
イギリス人と結婚したそうです。

フレディがツアーをしていた頃、楽屋にはいつもグルーピーたちが押しかけていました。
グルーピーには男子も女子もいたそうです。
ということは、日本でもフレディと付き合ったグルーピーがいたので、
日本に隠し子がいないとは言い切れなくて、もしいたら面白いなあという話。

フレディ73回目のお誕生日

今年のフレディのお誕生日は、各地で盛大に祝われましたね!
モントルーのこの写真はすごいですね。
私も先月モントルーへ行ったけれど、こんな光景は見られなかったから、
お誕生日のこの金色の輝きは普通じゃないと思う。
これはみんなの思いが、きっとフレディにつながったんだと思いますよ。
フレディのお誕生日1

みんな本当にフレディを祝ってくれてありがとう!
みんなが祝ってくれて嬉しく思います。(べつにフレディは私のものじゃないが)
フレディのお誕生日2

去年はパリで、ある音楽家の169回目のお誕生日に、お墓まいりに行きました。
やはり世界中からお誕生日祝いの人が訪れていました。
フレディのお誕生日もずっと何百年もお祝いされますように!!


フレディはなぜ生サラダを食べないのか?

ちょっと軽い話題でいきましょう!
フレディなぜなぜシリーズ・その1 「フレディはなぜ生サラダを食べないのか?」
生サラダ

フレディは生野菜を食べませんでした。
それはインドなど暑い地方で育ったため、食中毒の危険があり、生の野菜を食べることは禁じられていたから。
子供の頃に身についた習性は、終生変わることがないのですね。(これってシャレ?)
ロンドンにいれば、サラダは食べられるのに、どうしても食べられないという、習慣はおそろしいものです。
私もインドに行った時、水道水などは飲まずに気をつけていたのですが、やはりお腹をこわしてしまいました。
大抵の旅行者は細菌性の下痢になります。
飲み物の中に浮かぶ氷でさえ危なくて、多分原因はそれだと思います。
ニューデリーの日本大使館に呼ばれたり、連日パーティー三昧で過ごしており、危ないお店などには近づいていないのにも関わらず。
そして日本に帰ってからの後日譚ですが、なんと保健所から呼び出しがあり、コレラの検査をしてくれとのこと。
同行の日本人スタッフの中に、コレラに罹患した人がいたそうなのです。
結果的には私はシロでしたが、危ないところでした。
インドとは、それほどコレラに罹りやすいところとも言えます。
日本人は清潔好きで、すぐに除菌してしまうので、雑菌に弱いのです。
それに比べて、インドの現地人は雑菌に強い!
腸内細菌叢の構成が違うのでしょう。
フレディも、日本人やイギリス人とは違う腸内細菌を持っていたはずです。
だからロンドンのサラダは食べても大丈夫なのに〜
でもしばらくロンドンに住んでいると、また細菌叢が変わってくるのでしょうか。

フレディは日本が好きだったのに、とうとうお刺身は食べられなかったそうです。
これもアフリカやインドでは、生の魚なんて絶対に食べないからですね。

インドのフレディ

アフリカの次は、フレディが育ったインドですが、これまたすごいぞインド!!
私が初めて訪れた外国はアフリカのケニアとタンザニアだったが、インドもまた魅了された国である。
残念なことにフレディはあまりインドについて触れられたくなかったそうだが、それはロンドンで差別される恐れがあったからだろうか。
インドは素晴らしい国である!!
なぜなら、世界四大文明の一つ、インダス文明の故郷であり、インド哲学を育くみ、ヨガが生まれ、仏教が発祥したところだから。
他にも数学や天文学が発達しており、アユルヴェーダという医学や、ジョーティシュという占星学、インド舞踊にインド古典音楽など、枚挙にいとまがないほど素晴らしい文化の揺籃の地であり、人類の叡智の宝庫なのです!!
なぜそれをフレディが隠したがったのか、私は理解に苦しむのです。
フレディはアフリカの大自然の中で強い生命力と、ロックのルーツであるアフリカのリズムを身の内に取り込み、
次にインドの崇高な文明の中で育ったことで、スーパースターへの礎を築いたのです!
更にはペルシャのルーツを持つことが決定打となっているのですが、それはまた後に解析します。
フレディは本当に「アフリカ・インド・ペルシャ」という、地上最強にして最高のハイブリッドなのです!!

インドについて書く前に、確認しておきたいのですが、
ネットではよくフレディは「ペルシャ系インド人」と書かれていますが、 はぁ? インド人? フレディが?
冗談はやめてください。フレディはインド人ではありません。ペルシャ人です!
こうしたあたり、私は若い方たちにお願いしたいのですが、ネットに書かれていることを安易に信じないでください。
誰かが書いていることをそのままコピペしても、それが正しいかどうかはわかりません。
どうかネットに頼らずに、自分で資料を確認してください。
私もなるべく正しいことを書くように努力しています。
それでも記憶違いなどがあるかもしれませんから、もし間違いがあれば指摘してください。

ムンバイのタジマハール・ホテルはパールシーのタタが経営。
2008年にテロが起こってしまった。
ムンバイのタジマハールホテル

今日はインドについて書こうと思ったので、フレディのルーツであるペルシャについてはまた後日にします。
私は30年ぐらい前にヨガ (正しくはハタ・ヨガ)を習い、今でも時々自分で行っていますので、インドには親しみを持っています。
ヨガのインストラクターにならないかと誘われたこともあったのですが、そちらの方向には行きませんでした。
ヨガの理論では、人間の身体にはプラーナという生命力が宿っており、プラーナはナーディという細い管を通って身中に運ばれ、
身体中央のスシュムナーという太い管に沿って、7つのチャクラが置かれています。
チャクラについては、きいたことのある人も多いと思います。

インド哲学とは、古代インドに始まり、とくにバラモン教の聖典ヴェーダに記されたウパニシャドを受け継ぐ6つの学派があります。
ウパニシャドとは、サンスクリット語で「奥義」や「秘伝」を意味する一連の書物のことです。
ウパニシャドの根本は、「梵我一如」の思想であり、これは自分の内奥にある「アートマン」とつながることにより、宇宙の最高原理である「ブラフマン」と合一することができるという考えです。
これは世界のほとんどの宗教や思想と同じもので、人間が求めるものはこれに尽きるといっても過言ではありません。
問題はそこに至るまでの方法ですから、それについての議論が長年にわたって続けられているのが宗教思想界でしょう。
または、宗教を政治利用とする人たちは、「梵我一如」を民衆に知られないように隠している一派もあります。

仏教もインド発祥ですから、日本人には馴染み深いもの。
お寺に行ったことがない人はいないでしょう。
自分の家のお墓が、お寺にある人もいるでしょう。
8月のお盆も、日本の祖霊信仰と仏教が融合したものといわれています。
お盆のボンとは、サンスクリット語のウラムバナから来ているそうですが、イランのアヴェスタ語で「魂」を意味する「ウルバン」が元になっているという説もあります。イラン=ベルシャまで繋がっているのですね。

インドの思想はアメリカのニューエイジ運動に影響を与え、
ビートルズも1968年にインドを訪れて、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーから瞑想の指導を受けました。
これは大きなニュースとなり、他のミュージシャンや女優もインドへやって来ます。
1964年にロンドンへ渡ったフレディは、彼らのインド行きをどう思ったことでしょうね?

美しいタージマハール
タージマハール


フレディは8才からパンチガニのセント・ペータース・ボーイズスクールで過ごしますが、これは思いっきりキリスト教の名前ですね。カトリックです。
学校の中ではイギリス式の教育を受けたことでしょう。
フレディはあまり英語の訛りもないようなので、先生はイギリス人だったのでしょうか。
でも8才で一人で親元を離れるというのは、どんなに淋しかったことでしょう! 
小学校3年生ですから、まだ小さな子供です。
当時はザンジバルからムンバイまで、船で10日間もかかったそうですから、ものすごい距離です。
ムンバイという呼称についてですが、1995年まではボンベイでした。
そして2016年にボンベイに戻すと発表されたので、今はボンベイなのでしょうか?
とにかくフレディがいた頃はボンベイでしたし、私たちもボンベイの方がピンと来ますね。
パンチガニは高原にあったため、インドでも涼しい気候です。
ザンジバルの海辺の常夏の気候から、涼しい高原に移ったフレディは、きっと寒さと寂しさで随分泣いたことでしょう。かわいそうに。
パンチガニはプネーの側なので、やはりパールシーが多い土地として、ご両親も安心だったのでしょう。

一人で家族から離れたフレディは、ラジオから流れる音楽にどんなに慰められたことでしょう。
そして12才でバンド「ヘクティクス」を結成します。
hecticとは、「大騒ぎ」という意味で、興奮や熱狂を表します。
小学生の頃からバカ騒ぎが好きだったんですねえ。でもこれは寂しさの裏返しではないのでしょうか?
私の周りでも、とても明るくて賑やかな人は、子供の頃にとても苦労したことがある人だったりします。
私も人生の逆境にあった時、もう笑うしかない! というところまで追い詰められたことがあり、それ以来性格が前より明るくなったような気がするのですが。

パンチガニの後は、ボンベイのセント・メリーズ・スクールという高校に進学します。
ボンベイは仕事で行ったことがありますが、12月でも30度ぐらいあり暑かった。海辺なので湿度も高い。
朝5時ぐらいからイスラム教のコーランが鳴り響くので、朝の安眠はできない町なのです。
気候は雨季と乾季があり、サバナ気候といわれ、アフリカ大陸東岸の草原地帯と似ているそうなので、フレディは生まれ故郷に戻ったような気分だったのではないだろうか。お祖母さんと叔母さんと一緒に住んでいたそうです。
ボンベイは人口1800万人の大都市で、日本でいえば大阪のような華やかな商都です。
この街で暮らす高校生ならば、きっと街の映画館や喫茶店など、色々と遊びに行ったことでしょう。

「Jazz」に入っている「ムスタファ」という歌は、このボンベイで聞いていたコーランの記憶なのではないでしょうか?
この歌詞は英語、アラビア語、ペルシャ語、グジャラート語、スワヒリ語、または造語が使われているそうで、
なかなか解読は難しいようです。
フレディの遍歴が詰まっています。
フレデイこそが「ボヘミアン」なのですね。

インドで特筆すべきは、ボンベイ版ハリウッド映画、「ボリウッド」です。
インドの煌びやかな色彩に満ちたコミカルな映画で、美男美女の俳優たちが歌ったり踊ったりで、とても楽しい娯楽に仕上げられています。
フレディは必ずこれを見たことがあるはずです。
フレディはミュージカルが好きでしたが、ボリウッド歌手のラタ・マンゲシュカから影響を受けたそうです。。
フレディはインドではプレスリー、クリフ・リチャード、リトル・リチャードが好きだったので、あまりボリウッドの影響は受けていないとされていますが、全くなかったわけではないでしょう。
もしもの話はしても仕方がありませんが、ザンジバルから避難した時に、もしロンドンではなくボンベイに行ったとしたら、フレディはボリウッドのスターになっていたかもしれない等と想像すると思わずニヤニヤしてしまうのです。いや絶対ウケますよ、これ。
そしてボリウッドからハリウッドへ行き、ハリウッドのスターとして、私たちはフレディを知ることになったかもしれない。
なんて想像すると楽しいですよね。フレディもハリウッドは好きだったし。

ボリウッド映画
ボリウッド


インドについて、また長くなるといけませんね。
でもね、インドについて書くとなると、すぐには終わらないですよ。
本当はもっと短くしたいと思っているんです。だんだん短くしますので、ちょっと我慢してください。
私がインドに行って感じたことを書きます。
私はインドへ仕事で3週間行き、ニューデリーとボンベイ、バンガロールを訪れました。
バンガロールは南インドですが、高原なので涼しいIT産業の町です。
とにかく人口が多いので、交通量も多く、交通のマナーも無茶苦茶なので、道を渡るのも一苦労です。
日本人の留学生で交通事故に遭い、植物状態になってしまった人もいました。
貧富の差が激しくて物乞いの人たちがいることはご存じだと思いますが、お金持ちはこれまたすごいお金持ちなのです!
とくにすごいのがマハラジャといわれる領主で、1947年の独立後もマハラジャの称号は存続していたので、フレディがいた頃には実際のマハラジャが存在したのですね。
1971年にマハラジャや貴族に対する年金が廃止され、マハラジャの称号も禁止されましたが、現在でも豪華な城に暮らすマハラジャの子孫がいるそうです。
フレディは豪華なものが好きですが、このようなマハラジャの存在を知っていたからこそ、そのような暮らしに憧れたのではないでしょうか?
マハラジャの館

そしてインドでは、日本と違って価値が多様です。価値の転倒も起こり得ます。
たとえば、インドで安いサファイヤを買った人が、日本に持ち帰ったら500万円で売れたという話を聞きました。
もし貧しいインドの人だったら、500万円は大変な金額です。一夜にして大金持ちにもなり得るのです。
また、今日の新聞に載っていたのですが、インドで70才の女性が出産したそうです。
もちろん帝王切開なのですが、提供者の卵子と、旦那さんの精子を使って妊娠したそうです。
インドでの最高齢出産者は72才だそうです。
日本ではちょっと考えられない話ですよね。
インドでは、というかアジアでは、買い物もお店の人と交渉して安くしてもらい、値段を決めるので、
日本のように初めから決まっているということはありません。
「価値が決まっていない、価値は自分で決める、価値が飛躍するかもしれない」、という考え方をフレディはインドで身につけたのではないでしょうか。

フレディはインドのことを語りませんでしたが、
インド料理は好きだし、カレーを食べている写真もあったし、バナナも好きだし、やはりインドが好きだったのではないでしょうか。
アールズコートのフレディ邸の近くにインド料理店があったので、フレディも通ったのかもしれません。
インドはバナナの生産量が世界一です。
インドは素晴らしい国です!
インドに行ってみませんか?

インドは、まさにミラクルな国です! (ミラクルは奇跡、驚異)

それを言うなら、ペルシャはマジックの国だね!

南アフリカ公演とライブエイド

フレディがロンドンへ移住した後に、アフリカと関係したことは2回あります。
ひとつは1984年のクイーンの南アフリカ公演で、もうひとつは1985年のライブエイドですね。

南アフリカ公演で、フレディはザンジバル脱出以来、はじめてアフリカの地に足を踏み入れることになります。
その時の感慨はいかばかりだったかと想像されます。
ところが南アフリカはアパルトヘイト(人種隔離政策)をとっていたために、イギリスのミュージシャン組合は公演を禁止していました。
イギリスのミュージシャン組合というのは、知り合いの日本人ミュージシャンにきいたところ、とても結束力と影響力が強くて、日本人がイギリスで演奏するのは難しいそうなのです。
そのようなユニオン(組合)に反対してまで、クイーンは南アフリカからの招聘に応じて、公演することを決意しました。
クイーンはアパルトヘイトには反対だったにも関わらず、敢えて南アフリカ公演を行なったことで「金儲けだ」と非難され、組合には違約金を払わされ、ついに国連のブラックリストに載せられてしまいました。
そして世間からは批判され、反アパルトヘイト団体はデモ行進し、レコードセールスは低下してしまいます。
日本では常にクイーンを暖かく迎えていましたから、クイーンがこのような苦労をしていたとは知られざる事実だったのですね。
でも非難した人たちは考えてみてほしい、フレディは白人ではないし、アフリカ生まれだし、多民族の中で暮らしていて、イギリスでは移民として逆に差別を受ける立場だったことを。
フレディにはザンジバルで黒人の子守がいて、黒人とは仲良くしていたので、あまり深く考えなかったのかもしれないが、やはり黒人を使用人として差別していたとは思わなかったのでしょうか。
フレディは「自分たちがある国で演奏したことは、その国の政策に賛同するという意味ではない」と弁明したそうですが、白人と黒人を分ける政策の国で、白人だけのリゾート地で演奏したのですから、いくら弁明しても無駄というもの。
フレディたちは余りにも無邪気に、南アフリカの招聘に応じてしまったようです。
フレディの無邪気さは、恋愛関係においても慎重さを欠き、結果的に命取りになってしまったわけですから。
南アフリカ公演の頃



南アフリカ公演の後は、クイーンの解散説まで噂されるようになりますが、それを吹き飛ばしたのが翌年のライブエイドです。
ライブエイドは、エチオピアの飢餓救済のため、ロンドンのウェンブリー・スタジアムと、フィラデルフィアのジョン・F・ケネディ・スタジアムの2カ所で行なわれ、そのテレビ中継を合わせると、世界で19億人が視聴したとされています。
ライブエイド

クイーンは入念にリハーサルを行った後、最高のライブ演奏を行ない、38才のフレディの雄姿を今でもネットで見ることができます。
前年に行った南アフリカ公演のため、人気が下降していたクイーンにとって、ライブエイドは最大の復活の場となりました。
このステージに対しては、世間からも歓びをもって迎えられ、ボラプ映画のお父さんも良いことをしたと褒めてくれましたが、・・・ちょっと待ってください。
アフリカの飢餓は何故起こるのでしょうか?
それは、元々の発端はヨーロッパの植民地政策にあります。
19世紀の後半から、アフリカはイギリスやフランスの植民地となりますが、第二次世界大戦後の1960年頃から、アフリカ諸国は次々と独立を果たしました。ザンジバル革命もその一つですね。
ところが独立後の国境を適当に決めてしまったために、今でも民族・宗教・文化の違いによって紛争が絶えない地域が沢山あるのです。
飢餓が起こる原因の一つは、紛争です。
紛争は、一部の人が富を独占することによって起こります。
武器商人たちは、紛争を起こしたくて仕方がないので、不満分子や政府に武器を売りつけます。
武器が手に入ると紛争が起き、食料が作れなくなり、飢餓が発生します。
 つまり、イギリスは植民地政策を行なっていたために、アフリカの飢餓の原因を作っていたのです。
それなのに、飢餓の救済をするためにチャリティーコンサートを行なうというのは、何か自作自演のような違和感がありませんか?
もちろんライブエイドを企画したボブ・ゲルドフや、フレディたちの世代には直接の責任はありませんが、このような自作自演劇をマッチポンプというのですね。

もう一つの飢餓の原因は、換金作物の栽培です。
換金作物とは、米、とうもろこし、大豆、砂糖、コーヒー、カカオ等で、国際機関や他国のアグリビジネス企業が融資し、
農薬肥料を売りつけます。これらの作物を作って儲ける人たちが、持続不可能な農業を行ない、環境を破壊します。
日本でもこうした作物を輸入していますので、私たちも無関係ではありません。

さらに近くの農地を買いあさり、森林を切り開き、大規模な農業が行われて、その作物を買い取る他国のものだけが富を独占します。
やがて小規模な農家はいなくなり、低賃金で働かされる農民が増えていき、多くの人が食料を自給できず、飢餓が起こります。
その後で、遺伝子組み換え作物を栽培する大国が、富み栄えていくのです。

ですから、アフリカの飢餓救済のためには、本当は一度だけのチャリティーではなく、
アフリカの人々が自分たちで食べていかれるように農業や教育の支援していくことが大切なのです。
もちろん何もしないよりはチャリティーでも行なった方が良いのですが、
いくら食べ物などを送っても、一度だけでは、それがなくなればまた食べられなくなってしまいます。
私たちに一体何ができるのか、考えなくてはなりませんね。

「Is this the World we created?」(悲しき世界)は、フレディがミュンヘンでアフリカ貧困のニュースを見て作り、
1984年の「ワークス」に収録されたものです。

俺たちが食べさせるべき
あらゆる空腹な口を見よ
俺たちが生み出した
全ての苦痛を見よ
あちこちに散らばっている孤独な顔
必要なものを探し続けている

フレディもアフリカの飢餓には心を痛めていたことがわかりますが、
何といっても南アフリカのサンシティー問題の後だったので、周囲からは白々しいと思われたようです。
現在アフリカの人口は12億人、これからも益々の増加が予想されていますから、本当に難しい問題ですね。

というわけで、私はフレディのことを書こうと思っていたというのに、
書いているうちに、人種差別やアフリカの飢餓のこと、紛争のことなど、どんどん話が広がっていってしまうのです。
フレディは本当に生涯に多くの問題に関わった人であり、色々と勉強させていただいております。
地球上を駆け巡ったスケールの大きな人だから、仕方ないなあ。
フレディのおかげで、沢山のことを知ることができます。
何かフレディは人間として、地球の重要な結節点に関わっている気がします。
それがトリガーとなって、私たちを気付かせ、目覚めさせてくれるのです。
フレディ本人は余り何も気にしていなかったかもしれませんけど。(笑)




「天気の子」

天気の子

新海誠監督の「天気の子」を見ました。
はじめに16才の帆高が、離島から東京へ出てくるところで、17才でザンジバルからロンドンへ出てきたフレディを思い浮かべる。
要するに、何でもフレディに関係付けて考えるクセがついているのかもしれない。いやそうに違いない。
帆高は東京の雑踏に驚くが、フレディはどうだっただろうか?
高校時代はインドのムンバイという大都市にいたので、それほど驚かなかったかもしれないが、やはりロンドンのマナーなどに慣れるまでは、ちょっと苦労したのではないだろうか。
一番の違いは気候なので、ロンドンに慣れるまでは寒かったことでしょう。
ロンドンで初めの頃は、学校のブレザーを着ていたものね。

帆高が東京で知り合った女の子、陽菜は天候を変える力を持っている。
このような超能力者は実在するが、100パーセント成功するとは限らないので、陽菜の能力は絶大だ。
あまりネタバレになるといけないが、大雨で川が氾濫した時に、少女が人柱になって水神の怒りを鎮めるというのは、日本でも実際に行われていた話だ。
考えが跳躍するかもしれないが、物質と精神は同じものの裏表であり、連動している。
人間の精神と地球の気候が影響し合うというのは事実だと思う。
最近の、地球規模の異常気象は、人間の精神が変動を起こしていることの証左だと考えられる。
これは何も突飛な考えではなく、日本では昔から「病は気から」といって、精神が肉体に影響を及ぼすことを知っていた。
地球の天気が人間の精神に影響を与えるのならば、その逆もまたあり得るのだ。
そして音楽という目に見えないものが、人間の精神だけではなく身体にも影響を与えることは、クイーンファンの皆さんならば、日々経験していることだろう。
東京で知り合った若い帆高と陽菜が、ロンドンのフレディとメアリーに見えてくるのは、私の目の錯覚だと思うが、フレディはその類い稀なる音楽の才能によって、世界に活力と喜びを与えた。
その余りに強大なエネルギーによって、陽菜は人柱の犠牲になり、フレディは・・・ああフレディは!
・・・映画にはまだラストがありますので、どうぞお楽しみに!
フレディはメアリーの祈りによって、そして私たちの祈りによって、今も変容を続けていると思いますよ。

私たちは普通、個人の力では世の中を変えられないと思いがちですが、
天気を変えられる人がいるわけですから、私たちの意識のパワーによって、良い世の中を作っていけるのでは?!
そう思わせてくれる映画でした。
香港のデモ行進もすごかったですね! 

ザンジバル革命とフレディ

今日はフレディの73回目の誕生日だった。
お誕生日おめでとう、フレディ!!
奇しくもフレディが生まれたザンジバルについて書いている。
私は子供の頃からアフリカが大好きで、アフリカの大自然に憧れていました。
とくに動物が好きだったので、子供の頃は動物学者になりたいと思っていたのです。
そのため、20代で初めて外国に出た時、その行き先はアフリカのケニアとタンザニアでした。
アセンボリ国立公園でサファリを体験し、6000メートル近いキリマンジャロの秀麗な姿を目撃したことは、今でもはっきりと瞼に焼き付いています。
タンザニアのキリマンジャロからザンジバルまでは、400kmぐらい、飛行機で1時間の距離だったのですね。

子供の頃から憧れて、初めての海外旅行だったアフリカ、
インドには仕事で3週間ほど滞在し、インドの政府機関からも接待していただきました。
今までに20数カ国を訪れましたが、最も印象が強かったのはイラン(ペルシャ)です。
そしてヨーロッパは、子供の頃からヨーロッパ文化の勉強をしているので、故郷のように感じます。
つまり何故かフレディの生育歴と、私が強い印象を感じる場所が共通しているので、特別にシンパシーを感じてしまうのですよ。
フレディがツアーで回ったところと、私が訪問した国もかなり似ていて、私もブダペスト、ニューヨーク、パリ、ウィーン、ミュンヘンなどに行ったことがあります。どうしてこんなに似ているのか不思議。

ザンジバルは青く透明な海と、白いサンゴ礁に囲まれた島で、ストーンタウンは2000年に世界遺産に登録されています。
常夏の島、美しい楽園ではありますが、歴史的には幾多の苦難をかいくぐって来ており、
大航海時代にはポルトガル領となり、その後オマーンの支配を経て、イギリス領となります。
その間、ザンジバルはアフリカ全土から集められた奴隷と象牙、金などを輸出する港町として栄えました。
ザンジバルの海岸

しかし1950年代から、次第にイギリス統治に反発して、独立を求める動きが始まります。
50年代といえば、フレディがインドの全寮制ボーイズスクールに入っていた頃ですから、フレディの両親は子供をインドへ行かせた方が安全だという考えもあったのでしょうか?
そして1961年からは流血騒ぎが起こるようになり、遂に1963年12月にアラブ人サイード家をスルタンとしたザンジバル王国として、イギリスから独立を宣言しました。フレディがインドから帰ってきて一年も経たないうちです。
しかし原住民の黒人たちは、依然としてアラブ人の支配を受けることに不満を抱いていました。
独立から一ヶ月後の1964年1月、26才の黒人青年オケロが武装して暴動を起こします。
すぐにスルタンは国外へ逃亡して、イギリスへ逃れました。
この時に、怒り狂った黒人たちがアラブ人やインド系の住民を襲撃し、3日間で12000人もの人たちが虐殺されました。

これが「ザンジバル革命」です。
複雑でわかりにくいので、私も勉強しました。
このザンジバル革命とフレディについて、誰も言及している人はいませんが、私はここに注目します。
フレディが17才の時に、革命が勃発し、35万人の島民のうち12000 (または15000人という説もある)が殺され、2万人が逮捕されました。このすさまじい暴力の嵐を、フレディは身の回りに実感したし、海岸に並べられた夥しい数の死体も目撃したかもしれません。
そのショックと恐怖はどれほどのことだったことでしょう!? 殺される人々の悲鳴も聞こえたかもしれせん。
しかも、黒人たちから向けられた憎悪は、黒人を支配するものたちへ向けられたのですから、フレディ一家も大変な危険に晒されます。フレディ自身も死の恐怖を感じたことでしょう。
この激しい恐怖を17歳で体験したこと、これはフレディの人格形成に決定的な影響を与えたと思います。
17才というのは、人生の中でも最もセンシティブで傷つきやすい年齢です。危険な年齢と言うこともできます。

たとえば、音楽の好みで言うと、17才頃に好きだった音楽は、その人は一生忘れないと言われます。
17才でビートルズが好きだった人は、一生ビートルズが好きですし、17才でクイーンが好きだった人は、一生クイーンが好きなのです。(えっ、それっと、もしかして私のこと?)
では17才で地獄の阿鼻叫喚を体験したフレディは・・・???
やはり一生その傷を背負っていたのではないでしょうか?
フレディは常に楽しいことを求め、最後まで人生を楽しもうとしていました。
それは彼の中に「楽しくない何か」があったからではないか?
普通の人は、フレディほどは楽しいことを追求しなくても、そこそこ幸せに暮らしているわけですから、彼にはどうしても振り払わなければならない「楽しくないこと」が付きまとっていたのかもしれません。
私はそれを「ザンジバル革命」に見るのです。

ザンジバル革命によって、命の危険を感じたフレディですが、それだけではなく、革命の意味を考えたことでしょう。
自分たちが正しいと思って行ってきた「イギリス統治」を憎んでいる人々がいたこと。
自分たちは黒人を支配し、搾取する側であったこと。
それはまだ未成年であったフレディの責任ではないけれど、彼も罪責感を感じたであろうか?
当時、奴隷制度は既に廃止されていたけれど、奴隷制度の痕跡が残るザンジバルで、何か思うところがあっただろうか?
おそらく、この世の不公平、理不尽さ、そして己の無力さについて、深く感じるところがあったのではないだろうか?
そしてフレディは、深い傷を負ったまま、イギリスへと旅立つのである。

フレディは、イギリス以前の話をしなかったと言われるが、それは余りに深く傷ついていたので、とても話が出来なかったのではないでろうか? (インドではそのようなことはないが)
日本と、台湾や朝鮮の関係に置き換えてみるとわかりやすいが、
日本が台湾を統治していた時代、日本と台湾はわりと友好的だったので、台湾で暮らしていた時の話をする日本人も存在する。
私が知っている人で、日本の台湾総督府の関係者だった人は、良い暮らしだった当時を懐かしみ、一生お姫様気分が抜けなかった。
(やっぱりフレディも王子様なのかな?)
それに対して、朝鮮に駐留していた人は、あまり当時のことは話したがらない。反日感情を意識しているのだろうか。
フレディもザンジバルを訪れることは、二度となかった。

フレディ一家がイギリスへ渡った時、家の財産を持ち出すことはできただろうか ?
ザンジバルでは多くのアラブ人が財産を没収されたという。
私の友人の祖父は、戦争中に満州で病院の医師をしていたが、医師は日本の上層部にいたので、戦況の情報が入りやすく、敗戦が近くなってくると早めに満州を引き上げ、財産を持ち帰ることができたという。
フレディ家もザンジバルの上層部にいたが、戦争とは違って革命の場合は、突発的に暴動が起こり、事態の予測は難しかったかもしれない。イギリスのフェルサムの様子からすると、あまり財産は持ち出せなかったのかもしれない。

このようなフレディが語らなかったことを、暴露するようなことは、あまり快く思わない人もいるかもしれない。
でも私はフレディを貶めるようなつもりは全くなくて、逆に人生の大変な苦労をしたフレディだからこそ、それを乗り越える努力を続け、あのような素晴らしい歌が歌えるようになったということを賞賛したいのだ。
インド洋を航海し、7つの海を渡り、ロンドンに降臨した不世出のボーカリスト!
革命という極限の体験と、命がけの逃避行を経験し、難民となり、移民となっても、自分のやりたい道を貫き通したロックンロール魂に乾杯しよう!!

ちなみに、イギリスの植民地からロンドンへ移住した人は、外国から来たわけではないので、移民ではないのでは?と考える人もいると思いますが、ロンドン在住の人にきいてみたところ、やはりそれは移民と見なされるそうです。
パリでも、アルジェリアから来た人は移民とされましたよね。(サッカーのジダンは「北アフリカの移民の星」として活躍しましたが)

ザンジバル革命後、革命政府は企業を国有化するなど、社会主義政策をとっていきました。
そのため、東ドイツなどの社会主義諸国が、ザンジバル革命政権を支持しました。
しかしアメリカは、ザンジバル島に人工衛星追跡基地を建設しようとしていたので、ザンジバルが「インド洋のキューバ」になることを恐れていました。
さらにザンジバル革命は、アフリカ諸国に影響を与え、革命直後にタンガニーカ、ウガンダ、ケニアでも武装勢力が反乱を起こし、周囲に衝撃が広がります。
革命から3ヶ月後の4月に、タンガニーカとザンジバルの合併が発表され、現在のタンザニア連合共和國が生まれました。
この合併について、後に「米国国務省が仕掛けた」ことが明らかになったとは驚きました!
これは当時のアメリカの外交文書に書かれていたそうなのですが、
世界というものは、こんなに遠くのアフリカの小さな島にまで、社会主義勢力やアメリカの力が及んでいて、一国のあり方を左右しているものなのですね。
そのような国の軋轢の中で命を落とす人もいれば、フレディのように押し出されていく人もいる。
そしてフレディは飛んだのだ。蝶のように。

ザンジバルの鮮やかな色彩は、フレディの衣裳にも影響を与えている。
ザンジバルの色彩



ザンジバルのフレディ

さて、ロンドンとモントルーの旅行記も終わりましたので、いよいよフレディ研究の本題に入っていきたいと思います。
フレディ・マーキュリーという不思議な人物を理解していきたいと思います。
そこでまず生まれ育ちについて。
フレディがアフリカのザンジバルで生まれて、インドで育ったことは周知のことなので、経緯は割愛します。
私が注目したのは、フレディが「アフリカ」と「インド」と「ヨーロッパ」のゴールデントライアングルの文化を、三段跳びで身につけたということ。この3つの文化の融合の成果が、フレディという人物を生み出したという事実です。
しかも、もともとのルーツは「ペルシャのゾロアスター」なのですから、もはや完璧と言うしかありません。
私は本当にフレディは不世出の天才ボーカリストだと思っていますが、それはこの生育歴から編み出されたものなので、もう今後2度と同じような人物は現れないと断言できるのです。なぜなら現在ではアフリカやインドにイギリスの植民地はなくなり、同じような生育ルートを辿ることは不可能になったためです。
 
フレディは17才でロンドンへ渡りますから、45年の生涯のうち、3分の1は非ヨーロッパで過ごしたことになります。
人生の3分の1といえば長い時間ですし、とくに子供から高校生にかけての、周囲からの影響を受けやすく、本人の感受性も鋭い年代をアジア・アフリカで過ごしたわけですから、そこからの影響は多大だったことがわかります。

アフリカのザンジバルについて。
なぜそんなにアフリカがすばらしいのか?
それは、アフリカのリズムがロックのルーツだからです!!
1940年代のアメリカで、アフリカ系アメリカ人の音楽がリズムアンドブルース呼ばれました。
ロックンロールは白人のカントリーと黒人のブルースの融合から、1954年頃に生まれたとされていますが、リズムアンドブルースの影響も大きかったのです。その後、リズム・アンド・ブルースは、60年代にはソウルミュージックとも呼ばれるようになりました。
フレディは幼少期にアフリカで、まさにロックの本家本物のリズムを体感していたのです!
フレディのリズム感の良さは、生まれた時からの環境によるものだったのです!

ザンジバルはアフリカの東海岸沖、現在のタンザニア領にあります。
フレディが住んでいたストーンタウンは、19世紀にアラブ人が作った町で、豊かな自然に恵まれ、奴隷の売買の拠点としても栄えていました。
フレディの本名、ファルーク・バルサラの家は海岸のすぐ近くにあり、潮騒の音が聞こえていたと思われます。
波の音もフレディのリズム感というか、うねるようなグルーヴ感を養ったことでしょう。
ストーンタウンは島の西側にあり、アフリカ本土を向いているので、波は小さく穏やかです。
幼いフレディは朝な夕なに海を眺め、浜辺で遊んでいたことでしょうから、広い海は少年に大志を抱かせるに充分なバックグラウンドになったはずです。
真っ赤な夕日が水平線に沈んでいく姿を眺めながら、その荘厳さに心を打たれたことも数え切れず、その海の向こうの世界に憧れを抱いたかもしれません。

ザンジバルはスワヒリ語なので、フレディもスワヒリ語はいくらか知っていたはず。
たとえば「ジャンボ!」(こんにちは)とか。バルサラ家の使用人は現地人だったので、フレディもスワヒリ語で使用人とやりとりしていたことでしょう。子供は言葉を覚えるのが早いですからね。
ちなみに、バルサラ家には使用人がいたので、裕福な家であり、フレディはおぼっちゃんだったと言われていますが、
当時のイギリス統治下のアフリカにおいては、現地人は最下層の階級とされ、たいへんに安い賃金で働かされていたので、
使用人を何人も雇うのは容易いことでした。
日本でも戦前までは貧富の差が激しく、ちょっとした普通の家でも使用人がいたのです。
私の母の家にも、姉やと婆やがいたそうです。それはそんなに珍しいことではありませんでした。
ですからフレディの家に使用人がいたことは大層なことではないけれど、やはりイギリス政府の役人であるバルサラ家は、ザンジバルでは上層階級であることは間違いなく、フレディもお坊ちゃんだったと考えられます。

ザンジバルには「ターアラブ音楽」という、ザンジバルで生まれた歌謡曲がありました。
アフリカだけではなく、アラブやインド、さらには中南米やヨーロッパのリズムに溢れ、ザンジバルの多種多様な人種・民族の楽器が混じり合い、それぞれの多彩な文化がアラベスクのように織り込まれているという。
フレディが小さな頃に聴いていたターアラブ音楽というものを、聴いてみたいものだと思う。

ザンジバルは多民族、多文化の島であり、お互いに尊重し合っていて、人々は優しい。
気候は熱帯で、一年中夏服で過ごせるし、果物や魚介類が豊富で食べ物に困らない、まさに楽園のような島で育ったということは、
フレディの性格にも決定的な影響を与えていると思う。
とくに、ちょうど今日のBSで、岩合光昭の「猫あるき」という番組のザンジバル編を再放送していたのだが、島には猫が沢山いて、島の人たちが猫を可愛がっている。猫も人を恐れない。
この島で育ったことが、フレディが猫好きになったことの原因だと、はっきりわかった。
以前にもこの番組をYouTubeで見たのだが、何とも島の様子が寒村のように寂しく写っている。
でも実際にはストーンタウンは賑やかな町で、今やアフリカで最高のリゾート地なのだという。
こ〜んなに美しい島なのだ! 機会があれば、ぜひ行ってみたい。
ザンジバル

それから、ザンジバルではバナナが豊富。
またインドはバナナの生産量が世界一なのだ。
だからフレディはバナナが好きなのは間違いない。
フレディはきっと寒いロンドンでバナナを食べながら、南の国を思い出していたのだろう。
「アフリカ」と「インド」と「ヨーロッパ」を股にかけた、スケールの大きなフレディは本当にカッコイイと思う。
ちなみに、スイスのモントルーで食べたバナナは、中米のコスタリカ産だった。おいしかった。
日本のバナナは大抵フィリピンか台湾産だから、世界にはもっと色々なバナナがあるんだね。
これは晩年になって、だんだんバナナの木になってきたフレディ。
バナナのフレディ






プロフィール

楽園のペリ

Author:楽園のペリ
1975年、初来日の武道館でクイーンを体験、フレディのファンになる。長らくクイーンのことは忘れていたが、映画を見て思い出し、フレディについて研究するうち、ついにロンドンのガーデンロッジや、モントルーのクイーンスタジオまで行ってきました!

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