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フレディのステージは暑くて危険がいっぱい!

<フレディなぜなぜシリーズ9>
▶︎なぜフレディはステージで脱ぐのか?

その答えはズバリ、「暑いからでしょう!」
何ともストレートな答えですみません。
だって本当にステージは暑いんですよ。
私も昨日はステージで動き回っていて、汗だくになってしまいました。
(私は歌っているのではありません)

ステージには照明が当たっているので暑いのですね。
フレディには12本のスポットライトが当たっていたそうですから、暑いうえに、めちゃ眩しかったでしょう。
ステージは暑くて喉が乾くので、いつも彼らは飲み物を用意していましたね。
小林幸子はステージのライトで、着物が焼けてしまい、変色したと言っていました。
これだけ強いライトでは、お肌にも良くありませんね。
ステージでは電気器材から妙に生暖かい風が吹き、埃が舞っているので、コンタクトレンズをした目にはゴミが入り、悲惨なことになります。セットリストは貼り付けておかなければ、どこかへ飛んで行ってしまいます。

それでフレディは動き回っているので、暑くて脱ぐのでしょうけれど、脱ぐと観衆から「お〜」というどよめきが起こり、脱げばみんなが喜ぶんだな、という感触を覚えたのでしょう。
私もステージで一枚脱いだことがありますが、みんなお〜と喜んでいました。(裸にはなっていません)
それでフレディは聴衆サービスのため、いつも脱ぐようになったのでしょう。
ステージで脱ぐフレディ

脱いでみると、フレディは童心に返ったようで、嬉しかったのではないでしょうか?
ザンジバルの夕日を思い出したり、灼熱のインドの青春時代、あの海岸の素足の感触などが次々と脳裏に蘇り、そしてとうとう短パン一枚になってしまったのでは?
西洋では室内でさえ素足になることは、はしたないこととされますから、まして公衆の面前で素足になるのは勇気のいることです。
あいつは普通じゃない、ストリッパーか男娼か、喜劇役者か野蛮人かと言われてもやむを得ません。
紳士の国イギリスでは「異形のもの」と扱われても仕方がありません。
でも私たちアジア人は、素足の気持ち良さをを知っていますから、フレディの素足は全然OKですよね!
浜辺のフレディ
この珍しい写真は、どこかの浜辺でしょうか?
これから泳ぐところなのか、野生児フレディみたいですね。

それから、ステージには危険がいっぱいです。
電気器材が多いので感電することがあり、最近でもフランスやアルゼンチンで、歌手がマイクの感電により死亡しています。
ギターアンプの感電事故もあります。
ステージから転落して怪我をするアーティストも多数いますし、シルク・ド・ソレイユの団員が演技中にステージ上に落下して死亡したこともありました。
ステージ上の機材が倒れて怪我をしたり、ファンが死亡したこともありました。
極端なところでは、ライブ中にテロが起こり、銃撃されることもあります。

そこまでではなくても、ステージと袖、舞台裏は暗いので、足元がよく見えないところに、ケーブルが渦を巻いていたり、段差があって転んだりします。
私も舞台練習で派手に転んだことがありますし、本番では保険をかけますので、クイーンのメンバーも高い保険に入っていたことでしょう。ブライアンのギターにも高い楽器保険をかけているでしょうね。
1984年にフレディがステージで怪我をしたところ。
この時は一人で歩けないほどでした。
フレディの怪我

1970年代の若い頃にも、フレディがステージで転んだと言って不機嫌になっていることがありました。
暑くて埃だらけで危険がいっぱいのステージで、過酷なステージアクトと歌唱を行ない、旅から旅のホテル暮らしを続けたクイーンにも苦労があったことですし、「脱がなきゃやってらんないよ!」ってことにもなるでしょう。
そして完璧主義のフレディにとって、緊張のステージが終わると打ち上げだ、パーティーだ、飲むぞ、騒ぐぞ! となるのは必然の流れだったのでしょう。
お疲れ様でした、フレディ!




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フレディの作曲の秘密

<フレディなぜなぜシリーズ8>
▶︎フレディは何故あんなにすばらしい作曲ができたのか?

フレディの作曲方法が知りたいと思っているのですが、まだあまり情報がありません。
そんなら書くなって? はい、スイマセン。

フレディは楽譜が読めないと言っているので、当然ながら楽譜は書いていません。
音楽教育を受けた人が作曲する場合は、5線譜に音符とコードを書いていきますが、そのような方法ではなかったのです。
ではどのように作曲していたのでしょうか?
ピアノを弾きながら作っていましたが、録音することもなく、曲は全て頭の中にあったようです。

ブライアンの証言です。
《フレディ・マーキュリーの曲作りについてメイは、「デモテープはなかった。全てはフレディの頭の中と、彼がメモを書きとめた何枚もの小さな紙切れに書いてあったんだ。だから私が文字通りノート(音符)を示し、彼がAフラット、Cシャープ、Dフラットと付けていったのさ」と回想した。》

8月にモントルーのクイーンの元マウンテンスタジオへ行った時、フレディ自筆の歌詞がありましたが、このような小さな紙や、ノートの紙片に書かれていました。
歌詞にコードが添えられたものが1枚だけありました。
フレディの歌詞の紙

楽譜は書かずに作曲していたとは驚異的です!
そしてフレディはいつも先に音楽を作り、後から歌詞をつけていたと言います。
これも驚きなのですが、普通は先に歌詞があり、その言葉の内容に合った音楽を付けていくのではないでしょうか?
つまりフレディは、まず様々なタイプの音楽の曲を作りたかったので、音楽が先行であり、歌詞は付け加えられたものだったのです。
曲作りにおいて、音楽よりも歌詞をつくることにフレディは苦労していたと、ロジャーも証言しています。
フレディが伝えたいことは歌詞よりも音楽だった!
道理でクイーンの歌詞は、ごく私的なものが多く、あまり深い内容のものは少ないのではないでしょうか。

フレディは歌とピアノだけではなく、ギターやベースのフレーズも作っており、プラッククイーンやボヘミアンラプソディの制作には膨大な時間がかかったといいます。
スタジオ使用にはお金がかかりますから、それだけ長時間スタジオが借りられるというのも凄いところです。
スタジオに入ってから曲想を練ることもあったので、クラシック歌手のモンセラート・カバリエのような、楽譜さえあればすぐに完璧に歌える人種とは、録音方法が違っていたのですね。

フレディは1回聴いただけの音楽を、すぐにピアノで再現できるという能力の持ち主でした。
そして合唱の部分では、楽譜がなくても全てのパートを歌うことができたそうです。(イギリスは合唱王国と言われています)
これもすごい能力ですが、他にも合唱指揮者などにはこの能力があり、たとえばバッハの指揮者のカール・リヒターは、何百という曲の8声部の合唱とオーケストラの全てのパートを記憶していました。
モーツァルトは、バチカンのシスティナ礼拝堂で一度だけ聴いた8声部の合唱曲を記憶してしまい、後で楽譜に書きました。

モーツァルトといえば、彼は曲が生まれる瞬間について、このように書いています。
「すべてこれが、邪魔の入らぬ限り、私の魂を燃え立たせる。主題はひとりでに膨らみ、順序だてられて構想ができ、そして長い曲であっても、私の頭の中でほとんど全部完成する。私は瞬時に全体を見渡すことができる。」
はじめに完成していて、後は書くだけだったのですから、まさに天才ですね!

フレディの場合は、はじめに頭の中で完成していることもあれば、スタジオに入ってから色々と練り上げることもありました。
他のメンバーのアイディアと統合していくこともあれば、歌うだけ歌った後の処理はメンバーに任せることもありました。
録音については、先に楽器パートを録音してから、最後に歌を入れることを好みました。
フレディ作曲

アルバム2〜3枚目の初期の頃は「ソングライティングの勉強をしているんだ」と言っていましたから、常にスキルを磨き続けていたのですね。偉いなぁ。
曲作りというのは、初めのアイディアが大切ですが、それを構成して最後まで完成させるのは大変な作業です。
またクイーンは様々なジャンルの音楽を取り入れていますから、何々風の曲を作るという時に、編曲家の手を借りている可能性はあります。確証はありませんが。アレンジャーという職業があるのですから、それなりの需要があるわけですね。
書籍を作る時にも、編集者やゴーストライターが活躍していますが、音楽の世界でも同様です。

いずれにせよフレディは天才です!
あまりに太陽の近くまで飛びすぎてしまったけれど。








フレディのピアノの秘密

<フレディなぜなぜシリーズ7>
▶︎フレディはなぜピアノが上手いのか?

◯フレディはピアノの教育を受けているので、基礎的な技術をきちんと身につけています。
アルペジオやトリルもきれいで、レガート奏法もお手のもの。
7才から9才までピアノのレッスンに通い、「古典、実用、理論のグレード4をやったけど、それを諦めてから、基本的に耳でピアノを弾いた。全然読めなかったから。」とのこと。
フレディは楽譜が読めるようにならなかった。これは教授法が悪かったためなのか?
もし読めるようになっていたら、どうなっていただろうか?などと考えてしまいます。

その後、ロンドンへ行ってから、アートスクールへ入る前によくピアノの練習をしていました。
その頃、フレディは新しい友人たちと、よくブルース系の演奏を聴きに行っていましたが、その中には無名時代のロッド・スチュワートもいました。(フレディは友達を作るのが上手ですね)
ところが日曜日の夕方になると、コンサート会場からフレディがすっといなくなることがありました。それはピアノの練習をするという母親との約束を守るためでした。

◯耳コピーが得意。
フレディは小学生の頃から、ラジオから流れる曲をすぐにピアノで再現することができました。
これは発達障害の特徴ともされますが、フレディの頃には発達障害なんていう言葉はなかったし、それを言うなら音楽家はほとんどみんな発達障害ですから、全然気にすることはありません。

◯影響を受けたピアニスト
インド時代には、リトル・リチャードやファッツ・ドミノが好きでした。
この二人の音楽活動に、大きく影響を受けたと考えられます。
リトル・リチャードは1932年生まれのロックンロールの創始者の一人で、歌手・作曲家・ピアニストです。今も存命しています。
リトル・リチャード

ファッツ・ドミノもロックンロールの創始者の一人で、歌手・作曲家・ピアニスト、そして同性愛者でした。
ファッツ・ドミノ

◯ブギウギが好き
インド時代にはブギウギをマスターして、バンドで演奏していました。
ジェームズ・P・ジョンソン、パイントップ・スミス、ファッツ・ウォーラーなどが好きでした。
ブギウギとは、ブルースの歴史の中で生まれたピアノの演奏スタイルで、左手がブルース風のベースラインを弾き、右手がそれに乗せてアドリブのメロディーを弾きます。その原点は、ジャズの原点でもあるニューオーリンズ発祥のラグタイムにあります。

日本で有名なブギウギ・プレイヤーに、兄弟ピアニストのレ・フレールがいます。
レ・フレールの斎藤守也さんが、ブギウギの習得のために楽譜「左手のための伴奏形エチュード」を出版しました。

◯クラシックが好き
ショパンやラフマニノフが好きでした。ロマンチックですね〜

◯ジャズの影響
フレディはジャズシンガーのエラ・フィッツジェラルドからスキャットの唱法を学んだと言うので、その伴奏ピアノとしてオスカー・ピーターソンなど、往年の名プレイヤーの演奏を聴いていたはずです。

▶︎フレディのピアノには、このようにクラシック・ジャズ・ロックンロール・ブギウギなどが混在しており、それらが総合されて生み出されたのがフレディのピアノなのですね!
クラシックから、ロックのコード奏法、左手のベースライン、オクタープ奏法、アルペジオなど縦横無尽で、ワルツになったりオペラ風になったりと、軽やかに駆け抜けます。
楽譜は読めないけれど、耳コピーは完璧でした!
そして驚異的なのは、ピアノを弾きながら歌っていること!
あの複雑なリズムをとりながら歌えるというのは、ものすごい才能の持ち主ですね!

▶︎フレディの使用ピアノ
フレディはべヒシュタインが好きでした。
世界の三大高級ピアノとされるのは、スタインウェイ・ベーゼンドルファー・ベヒシュタインです。
スタインウェイはアメリカ。ベーゼンドルファーはオーストリア。ベヒシュタインはドイツです。
日本にはアメリカのスタインウェイが多いのですが、ヨーロッパでは伝統的にドイツのベヒシュタインが最高とされていたようです。
ベヒシュタインの工場は、1885年〜第二次世界大戦まではロンドンにもあったので、ロンドンでベヒシュタインを見かけることがあります。
クイーンがレコーディングしていたトライデントスタジオにも、ベヒシュタインがあり、ボヘミアンラプソディーもこのピアノで録音されました。「オペラ座の夜」には、使用ピアノとして、ベヒシュタインとクレジットされています。
トライデントスタジオでは、ビートルズの「ヘイジュード」や、ホワイトアルバムのほとんどの曲がベヒシュタインで録音され、エルトンジョンやデヴィット・ボウイも演奏しました。
イエスのリック・ウェイクマンも、トライデントスタジオのハウスピアニストだったので、このベヒシュタインを弾いていたわけですね。

フレディはオデオン座の公演にも、白いベヒシュタインをレンタルして持って行きました。
これはリッジファームのスタジオに持ち込んだ白いベヒシュタイン。
白いピアノ

フレディは自宅にもベヒシュタインを持っていました。
これが自宅なのかどうか不明ですが、このピアノは小ぶりですが、中国風の象嵌があり、大変高級なものですね。
象嵌のピアノ

フレディがどこかでベーゼンドルファーを弾いているところも見かけました。
ツアーではいつもスタインウェイのフルコンサートグランドを運んで使っていました。
さすがに高級なピアノばかり弾いていますね。
もうひとつ、イタリアにファツィオリという高級ピアノがあります。
(高級というのは品質が良く、音色が良いという意味で、小さいグランドピアノでも1000万円ぐらいになります。)
フレディがこのファツィオリを録音に使ったことがあるので、最近になってファツィオリの音源が発売され、「マーキュリー」と名付けられています。

これはどこかのスタジオ?
ピアノの上にシンセサイザーを載せています。
ピアノとシンセ


▶︎日本でベヒシュタインを弾いてみたい人は、輸入総代理店のベヒシュタイン・ジャパンのサイトをご覧ください。
https://www.bechstein.co.jp




フレディの声の秘密

<フレディなぜなぜシリーズ6>
▶︎フレディはどうしてあんなに素晴らしい歌が歌えるのでしょう?
私たちはどうしてこんなにフレディの歌に魅了されるのでしょうか?

◯低い声から高い声まで、4オクタープの声域を誇る。
これは男性と女性を合わせた、バスからソプラノまでの声域なので驚異的です!

◯細かいヴィブラートがかけられる。
わざとらしい大げさなヴィブラートではなく、繊細な表現ができる。
この点、60年代のフレディはまだ細かいヴィブラートができなくて、大げさなヴィブラートをかけており、ロジャーと知り合った頃「気持ち悪い」と言われたので、それから奮起してものすごい自己研鑽を積んだのではないかと思われます。

◯音程が良い。
ポルタメントで舐めるように歌った後、瞬間的にバキッと高音に当てることができる。
音程についても、60年代ではまだ不安定でしたが、クイーンのデビューまでには驚異的に改善されています。
フレディはわずか2〜3年で、非常な刻苦勉励をしたと思われます。
これほど短期間に自己を改造できる人間は稀だと思います。
こんなことが可能なんだという標本じゃなかった、お手本のような人間です。

◯声の響きが良い。
声が鼻腔や軟口蓋に、きれいに共鳴しています。
いわゆるミックスボイスとなり、上顎から頭へ抜ける声になります。
これはプロの歌手は必ず身につけている唱法です。
フレディは柔らかいミックスボイスや、強いミックスボイスを自在に操ることができます。

◯多彩な発声を操ることができる。
強い地声、普通の地声、ウィスパー、様々なミックスボイス、ファルセット、シャウト、オペラ風まで、万能に歌いこなすことができる、圧倒的な歌唱力を持っています。
まさに「七色の声を持つ男」。
たとえば、ドント・ストップミー・ナウの冒頭の数小節の中で、「地声で少し空気まじりの柔らかめの声〜エッジのきいた輪郭のくっきりした地声〜急にファルセットを美しく歌った直後に地声に戻る」という芸当をやってのけています。
並大抵のことではありません。
ドントストップミーナウ

◯息の流れが良い。
フレディの特徴は、息の圧力が強く、特有の鳴りがあること。
息の流れを自在にコントロールして、美しいフレーズを歌うことができます。

◯声帯のコントロールが完璧。
声帯を強く閉鎖してコントロールすることができます。
息で声帯を押し切るシャウト系の発音もできます。
声帯の軽やかなガラガラ感もあります。

◯ファルセットがきれい。
高音を綺麗にきかせたいところや、抜きのところでファルセットを使います。

◯倍音が多い。
美しい響きを生み出します。
キラークイーン

とまあ、実にすばらしい歌唱法のオンパレードです。
総合して、フレディは音量に関係なく、共鳴や音色をコントロールすることができる、プロ中のプロです!
とくに私が驚嘆するのは、その多彩な表現力で、言葉のひとつひとつに深く鮮明な表情が込められています。
まさに「歌と共にある、一人の歌手」ですね!

そのような表現力が培われたのは、やはり彼の人生経験と人生観によるものでしょう。
「人の歩んできた道が歌になる」と言われます。
フレディの歌には、どれをとっても深い思いが込められています。
それは力強いけれども繊細で、気品があるかと思えば妖艶になる、不思議なフレディの魅力となっています。

クィーン初期のフレディは、繊細な歌い回しも得意にしていましたが、80年代に入ってスタジアムで公演するようになると、当然のことながら歌い方も変わってきます。
100人のホールと1000人のホールでは歌い方は変わりますから、ましてや10万人のスタジアムでは満場の聴衆に声を届けるためには絶唱系の歌唱になりやすいでしょう。喉を痛めることもあるでしょう。
スタジアムで歌うというのは、クイーン側の要望だったのか、プロモート側の野望だったのかわかりませんが、おそらく後者でしょうが、バンドも変質せざるを得ませんでした。
スタジアムで繊細な歌を歌うことはできませんから、それを封印することは、クイーンが得た成功の代わりの代償といえるのではないでしょうか。

フレディはなぜメアリーが好きなのか?

<フレディなぜなぜシリーズ・その5>

フレディはなぜメアリーが好きになったのか?
それはフレディが好きなライザ・ミネリに、メアリーが似ているからではないでしょうか?
フレディとメアリー

ライザ・ミネリ
ライザ・ミネリ

フレディはメアリーに出会った時に「あっ、ライザ・ミネリだ!」と思ったのではないでしょうか?
2人とも目が離れていて、似ています。

メアリーというのは稀有な人生を生きた人ですね。
まだ生きているので、まさに生ける伝説です。
メアリーはロンドン南部のバタシーに生まれましたが、バタシーといえば、ロックファンならば知らない人はいない、ピンクフロイドの「アニマルズ」のジャケット写真、この発電所があるところです。
ピンクフロテド アニマルず

「アニマルズ」は、動物を使って人間社会を批判するもので、資本家は豚になぞらえられています。
ジャケット写真の撮影のために、ビニールに空気の入ったピンクの豚を飛ばしたのですが、風で飛んで行ってしまい、ヒースロー空港のフライトは停止するわ、イギリス空軍が探索に乗り出したという曰く付きのものです。

当時のロンドンの治安は「北は安全、南は危険」とされていました。
バタシーはロンドンの南にありますが、最近では再開発が進み、安全な地域になりつつあるそうです。
この発電所も残念ながら2014年に取り壊され、新しいショッピングモールになってしまったそうです。

メアリーは経済成長のために、資本家によって大気が汚染された、この町で生まれました。
両親は聾唖者で家は貧しく、メアリーは15才から働きに出たので、高等教育を受けることはできませんでした。
そしてBIBAの店員をしていた18才の時に、フレディと出会うのです。

メアリーの際立つところは、フレディとの恋人関係を解消してからも、親友としての関係を続けたところでしょう。
彼女はフレディの数多くの恋人たちが現れては消えるのを傍観し、時には複数の恋人たちと同席していました。
そのようなハーレム状態を受け入れられるというのは、自分に絶対の自信があったからなのでしょうか?
それとも有名でお金持ちになった元カレから離れられなかったのでしょうか?

フレディはメアリーと婚約までしたのに結婚しなかったことで、彼女に対して強い罪悪感を持っていました。
婚約破棄など、それほど珍しいことではないので、なぜそれほどまでに強い罪悪感を持ったのか不思議です。
婚約解消のかわりに、フレディはメアリーに家を買ってあげ、自分の秘書として雇い、給料を支払っていました。
そしてフレディが病気になると、自分がいなくなってもメアリーが暮らしていけるように、小さな会社を作ってあげました。
そのうえ莫大な財産の半分を残し、印税も入るようにしてあげたのです。
メアリーは貧しい家の娘から、大邸宅の女主人になりました!
まさに現代のシンデレラストーリーです!

フレディはなぜそこまでメアリーを優遇したのでしょうか?
メアリーは貧しい育ちだったので、お金や物を大切にし、謙虚で誠実な人柄だったようです。
高い教育も受けられず、手に職もなかったので、一人では生きていけない、か弱い女性だったので、守ってあげたかったのでしょうか?
メアリーは両親とは手話で話し、会話をすることができなかったので、寂しい思いをしていたので、同じような孤独を抱えたフレディとは共通するものがあり、お互いを必要とするようになりました。
2人の写真を見ると、フレディの方が強く彼女を求めているような気がします。

メアリーの言葉です。「私は周りからどんなに嫉妬されても気にせず、謙虚にして、決してフレディを裏切らなかった。」
これが全てを物語っているように思います。

ライザ・ミネリ似のメアリー、
そしてもう一人、面差しが似ている人がいます。
フレディのお母さんもちょっと目が離れていますね。
これぞmother love 母の愛ですね!
フレディの母

プロフィール

楽園のペリ

Author:楽園のペリ
1975年、初来日の武道館でクイーンを体験、フレディのファンになる。長らくクイーンのことは忘れていたが、映画を見て思い出し、フレディについて研究するうち、ついにロンドンのガーデンロッジや、モントルーのクイーンスタジオまで行ってきました!

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