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フレディの出自・まとめ

フレディの生い立ちを書いていたら、ずいぶん膨大なことになってしまいました。
17才でロンドンへ来るまでに、広範囲に渡る移動をしているので、様々なテーマに関係しています。
フレディの生い立ちについて、まとめてみます。
フレディの生い立ち


アフリカのザンジバル生まれ
・ ロックンロールのルーツはアフリカのリズム。フレディは生まれながらにそれを身につけた。
・ ザンジバルは黒人の奴隷売買の拠点だった。
・ ザンジバル革命とは、アラブ人やイギリスに支配されてきた歴史から、黒人が起こした独立運動。
    この革命により、フレディ一家は難民となり、ロンドンで移民となった。
・ アフリカは白人の植民地となり、アバルトヘイト(人種隔離政策)が行われていた。
    クイーンも南アフリカでライブを行なったため、体制側の人間と見なされ、バッシングされた。
・ アフリカの飢餓の問題は、白人による植民地化に端を発し、国境が曖昧になったための紛争が起こり、
    換金作物を作るアグリビジネスによって、現地の人は飢えることになってしまいました。
    一時のチャリティーによって解決できる問題ではありません。
・ ザンジバルには猫が多い、猫の島。猫と共に育ったフレディは猫好きになった。
・ ザンジバルには日本人の「からゆきさん」がいた。からゆきさんとは、日本が富国強兵するために送られた娼婦のこと。
    ある猫好きな「からゆきさん」とフレディの家は100メートルの距離だった。
 
インドの全寮制ボーイズスクールで教育を受けた。
・ インドはインダス文明発祥の地で、古代インドの哲学を持っている。
    インド哲学のウパニシャドの根本とは「梵我一如」の思想であり、これは自分の内奥にある「アートマン」と
    つながることにより、宇宙の最高原理である「ブラフマン」と繋がることができるという考えです。
・ インドの思想はアメリカのニューエイジ運動に影響を与え、ビートルズもインドで瞑想の指導を受けた。
・ フレディはインドのヨガを行なっていた。そのため強健で柔軟な身体を保つことができた。
・ フレディは高校時代はボンベイにいたので、「ボリウッド映画」のミュージカルを見たはず。
・ インドには桁外れの大金持ちがいるので、フレディも伝え聞いたでしょう。
・ インドでは価値が流動することがあるので、「価値は固定していない」「価値は自分で決める」「価値は飛躍することがある」
   という考え方を身につけたのではないか。
・ インドはバナナの生産量が世界一なので、バナナが好きになった。生サラダや刺身は食べられなくなった。
・ インドやセイロンで生産される紅茶を、フレディは毎日飲んでいた。特に王室御用達のトワイニングが好き。 
・ インドは「ミラクル」な国である! (奇跡、驚異)

ルーツはペルシャのゾロアスター教
・ フレディはインド人ではなく、ペルシャ人。人種はアーリア人。
・ ペルシャは、古代メソポタミア文明の影響を受け、BC2000年頃からアーリア人が文化の基礎を築いた。
・ ゾロアスター教は、3世紀から7世紀まで、ペルシャの国教だった。
・ 7世紀にイスラム教の迫害を受け、インドに逃れてパールシーと呼ばれるようになった。
・ ゾロアスターはBC1000年〜BC500年頃の人で、ゾロアスター教は後のユダヤ教・キリスト教・イスラム教などに
   大きな影響を与えた。
・ アフラ・マズダーは善きものの最高神であり、アンラ・マンユは悪しきものの最高神。善と悪の二元論。
・ ゾロアスター教の思想には天地創造・光と闇の闘争、天国と地獄、終末思想、最後の審判、救世主、洗礼の儀式などがある。
・ ゾロアスター教の宇宙論では、宇宙には12000年の周期があり、3000年ずつに分かれている。
    今は最後の3000年で、最後には救世主が現われ、最終戦争が起こり、世界は燃える溶鉱の中に溶け去って再生し、
    最後の審判が行なわれる。
・ 人間は死ぬと、肉体と魂が分離する。死後4日目に「チンワトの橋」へ行く。
    ここで生前に行なった善と悪の量が計られて、善が多かった者は天国へ行き、悪が多かったものは地獄へ行く。
    だから人間は「善い考え」「善い言葉」「善い行ない」をするべきということになる。
・ 意外なことにゾロアスター教は日本へ伝わっており、真言宗の「護摩焚き」や、東大寺の「お水取り」、お盆の送り火、
    お正月の松飾りを焼く「どんど焼き」なども、日本の風習の中に溶け込んでいる。
・ 奈良の正倉院にはペルシャから伝来したガラス器や楽器が収蔵されており、ペルシャ人も渡来していた。
    聖徳太子の母親はペルシャ人だという説や、平家はペルシャ人の末裔ではないかという説がある。

◆という訳で、フレディの生い立ちには、膨大なテーマが関わっていることがわかりました。
  とにかく、フレディはゾロアスター思想を持つペルシャ人であり、
  アフリカの生命力とリズム感を身につけ、
  インドのヨガを体得してロンドンへ渡った超人なのです!
アフリカ・インド・ペルシャ・イギリスのハイブリッドなのです!
アフリカ・中近東・アジア・西洋の混合なのです!
   つまりフレディの中で地上最高のmixが行なわれたために、あのような音楽が生まれたのですね!

  
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フレディと移民・難民

ご存じのように、フレディはザンジバル革命から脱出した難民だったことがあり、ロンドンで移民として暮らすことになりました。
ザンジバルからは命の危険を感じつつのエクソダス(国外脱出)でしたし、移民としてゼロから生活を立て直すことは、どんなに凄まじい苦労だったことかと胸が痛みます。
たとえイギリスの植民地からの移動だったとしても、ロンドンでは移民としてみなされ、民族的差別も受けながらも、フレディはあらゆるハンディを跳ね返して成功を掴みました。
海外の移民・難民については、私にはとても語る資格はないので、日本の移民について考えてみたいと思います。

ロンドンに行くと、街中には沢山の外国人がいて、一体どこにイギリス人がいるのかなと思います。パリでもそうです。
ロンドンの移民は現在50パーセントぐらいだそうです。半分は移民なのですね!
日本にはまだあまり移民はいない、と思っていましたよね、今までは。
でもこの頃、町で外国人を見かけることが多くなったと思いませんか?
とくにコンビニで働いている外国人をよく見かけませんか?
日本にはどのくらいの外国人がいるのでしょう?
いま日本にいる外国人は増加の一途をたどっていて、250万人ぐらい在留しています。
中国、韓国、フィリピン、ベトナムなどのアジア人が多く、イラン人は減少しています。
250万人のうち、118万人が何らかの仕事に就いており、コンビニでお世話になることも多くなってきたのです。
日本には移民が少ないと思っていたのは、実はとんでもない誤解で、なんと日本は世界で5番目に外国人が多い国になっていたのです!
250万人というのは、名古屋市の人口を越え、彼らは製造業や小売業、サービス業などに従事しており、もはや日本はすでに外国人の労働力がなければ成り立たない経済構造になっているのです!

外国人技能実習生は25万人が在留しており、2020年までに留学生を30万人受け入れることとして、
政府は積極的に外国人の受け入れを促進しています。
しかし日本では彼らを移民としては捉えていません。
実は国際的に「移民」の定義は統一されていないのです。
国連などの国際機関では、1年以上外国で暮らす人は全て「移民」に該当すると解釈しています。
すると日本に住んでいる250万人の在留外国人は、ほぼ全て「移民」ということになります。
しかし日本は2016年に、独自に「移民」を定義付けました。
その定義とは「『移民』とは、入国の時点でいわゆる永住権を有するものであり、就労目的の在留資格による受け入れは『移民』には当たらない」というものでした。
これは日本国際交流センターの毛利敏浩氏によると「世界的に見ても例のない奇妙な」定義だという。
日本では、入国の時点で永住権を持っていなければ、たとえ10年以上日本に居住して労働し、年金や保険料を納めて、最終的には永住権を獲得した人でも「移民」ではないということになるのです。確かに奇妙なことですね。
日本では、とにかく「移民」という言葉を避けて「定住外国人」と言ったりするようです。
どうしてそれほどまでに「移民」を避けるのでしょうね?

移民の中には「外国人技能実習生」の待遇に対する問題もあり、実習生のパスポートを取り上げて、時給300円で働かせたりするので、これはもはや人身売買だという声も上がっています。
また、日本はなかなか難民を受け入れないので、難民申請をしながら何年も認められず、法的立場が定まらないままに生活している人たちが全国に数千人いると言われています。
彼らは働くこともできず、健康保険に入ることもできません。
2017年に難民認定された人は、わずか20人でした。

日本における移民・難民は本当に難しい問題ですが、これから国内にますます外国人が増えて行くことは確かです。
私たちもフレディが空港で働いていた移民だったことを思えば、何とかもっと彼らを理解していかなければならないのではないでしょうか。

移民について、おすすめ本
コンビニ外国人

2018年のフレディの誕生日を祝うヒースロー空港の荷物係たちのダンス
空港のダンス
これはとってもイイね!
動画はこちらで見られます。
https://adgang.jp/2018/09/165402.html



ザンジバルの「からゆきさん」とフレディ

フレディが生まれたアフリカのザンジバルには、なんと日本人の「からゆきさん」がいたという。
「からゆきさん」とは「唐行きさん」のことで、明治から昭和にかけて、海外へ働きに出た日本人娼婦のことを指します。
このことだけでも驚きですが、なんと調べてみると、からゆきさんが住んでいた家と、フレディの家は100メートルぐらいしか離れていませんでした。
からゆきさんは猫を何匹も飼っていたので、きっとフレディ少年は猫を見に行って、からゆきさんと会ったことがあるに違いないと確信しました。
フレディが日本を好きなのは、子供の頃に日本人を見たことがあったからなのです!
それでは順を追って説明しましょう。

日本は明治になって鎖国が解かれ、海外と交流するようになりました。
明治26年(1893年)に、日本郵船が最初の遠洋航路、横浜〜ボンベイの路線を開きます。
日本とアフリカの貿易は、ボンベイ経由で行われました。
これで日本とボンベイ(インド)〜ザンジバルのつながりが明らかになります。

日本郵船がインドへ行く前に、シンガポールに停泊しますが、
日本が開国したばかりの明治4年には、既にシンガポールに日本人の「からゆきさん」の姿がありました。
明治になって、日本は海外へ進出していきますが、まず真っ先に「からゆきさん」たちが送られ、その後に店が出来、会社の出張所ができて、船が寄港するようになり、その土地が繁盛するようになっていきます。そして最後に日本の大企業がやってくるのです。
からゆきさんは日本の海外進出の先兵と位置付けられています。
また日本の外貨獲得のために働かされたとする説もあります。

シンガポールのからゆきさんは、明治の後期には1000人を数えるほどに増えていました。
そしてシンガポールを根拠地として、インドのボンベイやアフリカ東海岸へ遠征していきます。
1903年にはアフリカ南端のケープタウンにまで到達していました。クイーンも公演した南アフリカ共和国ですね。
ザンジバルでは1890年代から、からゆきさんの活動が始まり、1920年代には隆盛を誇り、1930年代から次第に衰退していき、第二次世界大戦後には停止していたようです。
ザンジバルのからゆきさんの家
ここがザンジバルのからゆきさんが住んでいた家です。
ザンジバルを初めて訪れた日本人は、からゆきさんだったのです。
からゆきさんは「酒場」や「珈琲店」を経営したり、そこで働いたりしていました。
今でも「ジャパニーズ・バー」というお店が残っているそうです。


からゆきさんとは、主に長崎県などの貧しい漁村の娘さんが、「海外で働くとお金が儲かる」と、うまく誘われて連れて行かれ、実際に行ってみると普通の仕事ではなく、売春をさせれらたというケースが多かったそうです。
娘さんの中には、あまりのショックに気が狂ったり、自殺した人もいたそうです。
明治の娘さんが自分でいきなり外国へ行くことは考えられず、やはり斡旋する業者がいました。
その業者は案内料として、娘たちに多額の借金を負わせ、なかなか日本に帰れないようにしていたのです。

からゆきさんの中には逞しく生き延びて、自分が酒場などを経営するようになった人もいました。
それがザンジバルの「おまきさん」です。
おまきさんは1890年(明治23年)生まれで、しばらくシンガポールで働いた後、24・5才の時にザンジバルへ渡りました。
1915年ごろからストーンタウンで商売をし、1920年代にはかなり繁盛していたそうです。
1930年代には、港に寄港する船に日用雑貨品を売る仕事をしていましたが、第二次世界大戦が起こると、日本はイギリスの敵国となったため、おまきさんは収容所に送られてしまいました。(1980年〜1964年まで、ザンジバルはイギリス領でした)
収容所といっても軟禁状態で、単に放置されていたような状態だったそうです。
そして彼女は戦後も日本に帰らず、ザンジバルに残って年を重ねていきました。
おまきさん
これがザンジバルの「おまきさん」です。30才ぐらいの時。
おまきさんは1959年に、日本へ帰国しました。

ストーンタウンといえば、フレディが住んでいた町。
しかも地図で調べると、フレディの家と、おまきさんの家は僅か100メートルぐらいの距離しかありませんでした!
フレディが生まれた1946年から、フレディがインドへ行く1954年まで、2人は近所に住んでいたことになります。
おまきさんは1915年頃からストーンタウンに住んでいたので、日本人として有名だったそうです。
フレディ少年が町を駆け回っていた1950年頃、おまきさんは60代に差しかかり、つつましい暮らしをしながら、数匹の猫を飼っていました。
ザンジバルですから、猫はどこにでもいたでしょうけれど、猫がいればフレディ少年はつい見たくなってしまうでしょう。
おまきさんは親分肌の面倒見の良い性格だったそうですから、猫好きな少年がいれば、可愛がりたくもなるでしょう。
おまきさんは自分の猫たちに日本の名前をつけていましたから、その名前をフレディ少年もきいたことがあったかもしれません。
後にフレディも自分の猫に「ミコ」という日本名を付けたり、「キラークイーン」にもミナ(マイナ)という芸者名が出てきますよね。
実際に2人が接触したという証拠はありませんが、フレディが日本を好きになった淵源がそこにあるのではないかという気がして仕方がないのです。
猫が好きな優しい日本人のおばさん・・・それがフレディの日本人に対する原イメージになったのかもしれません。

ザンジバルでは、1950年ごろまで「リクショウ」と呼ばれる「人力車」が走っていました。
人力車は明治の初めに日本人が発明したもので、ストーンタウンの狭い路地を走るにはうってつけだったことから、政府のイギリス人や外交官が愛用していたそうです。
インドでも「リキシャ」が沢山走っています。

ザンジバルにはペルシャとのつながりもあります。
ザンジバルとは、ペルシャ語の「ザング(黒人)」と「バル(海岸)」が結びついたものと言われます。
歴史的には、8〜9世紀にペルシャ湾岸からイスラム教徒のペルシャ人が、東アフリカ沿岸部に沢山移住してきました。
15世紀までにはペルシャ人のスルタン王朝ができましたが、16世紀にはポルトガル領となります。
フレディ家も、まるで運命の糸に操られるかのように、インドからザンジバルへ、そしてロンドンへとつながっていくのですね。

ところで、からゆきさんは「娘子軍(ろうしぐん)」とも呼ばれます。
これは明治政府が富国強兵を行なっていた時代に、娘たちをも軍隊になぞらえたのでしょうか。
そもそも、娘たちを東南アジアからインド、アフリカへ連れて行き、売春婦として働かせることを発案したのは誰なのでしょうか?
娘たちを斡旋する女衒の組織がありましたが、開国してすぐに日本人がアフリカまで販路を広げることが可能なのでしょうか?
娘たちを軍隊の先兵のようにして海外へ進出させ、その後に日本の企業が支店を開いていく。
これは一般の日本人が考え付くことではありません。
そしてからゆきさんたちが働いた莫大なお金は、一体どこへ行ったのでしょうか?
からゆきさんたちが働いていた町は、シンガポール、香港、ボンベイ、ザンジバルのストーンタウン、南アフリカのケープタウンなどでした。これらの町に共通することは何でしょう?
そう、これらの町は全てイギリス植民地だったのです。
当時、アジア各国を植民地支配していた欧米の軍隊からの強い要請があったところへ、からゆきさんを派遣していたというのですから、日本のどこが派遣していたのか、おおよその見当はつきますよね。
日本のからゆきさんは、人身売買として世界から非難され、1920年にイギリス領マラヤの日本領事館は、娼婦の追放を宣言しました。
そして、おまきさんがザンジバルから帰国したのは、じつに1959年のことでした。

参考本「ザンジバルの娘子軍」
ストーンタウンの地図が載っています
ザンジバルの娘子軍














フレディの音楽にはゾロアスターの影響が。

アフラ・マズダー

フレディは敬虔なゾロアスター教徒だったという説があります。
https://www.aboutfreddiemercury.com/farrokh-bulsara-der-zoroastrier/
ここに書かれていました。元はドイツ語のようです。

一般にはフレディのイメージとは、エキセントリックなトラブルメーカーで、執念深くヒステリックなドラッグ野郎で、金遣いが荒かったとされていますが、それは間違いだ! というのです。
実はフレディは敬虔なゾロアスター教徒の生活を送っていました。
第一、フレディは毎年アルバムを制作してはツアーに出ていたのですから、毎晩遊びまわるような時間は全くなかったのです。
Album Tour, Album Tour, Album Tour!! ですよね。

フレディの生活とは、
・第1に、スタジオでの曲作りや打ち合わせで忙しい。
・毎日のヨガと食事療法を行なう。
・毎晩のリラクゼーション・プログラム(ヨガ)
・しばしばクラシック音楽を聴く
・ペルシャ古典文学を読む。→これは歌作りのインスピレーションになった。
・ゾロアスター教の礼拝を行なう。
 定番の祈りと、聖典「アヴェスター」の精読。これは誰もいない場所で行なった。

とてもロックミュージシャンの生活とは思えないような、かなりストイックな行者のような生活ですね。
これを生涯続けていたのかはわかりませんし、ツアーの間はこれほどはできなかったでしょう。
ジム・ハットンによると、フレディは熱心なゾロアスター教徒ではなかったといわれますが、礼拝と祈りは誰もいない所で行なうので、ジムは知らなかったのでしょう。ジムの知らないフレディの姿です。
ジムは、フレディがベッドの横で何かを唱えているのを聞いたが、内容はわからなかったと書いていますが、やはりゾロアスター教の祈りだったのですね。
フレディの葬儀も、フレディの遺志により、ゾロアスター教式で行なわれました。

マスコミによると、フレディは派手に遊びまわって毎晩違う男と寝たと書き立てられましたが、それはマスコミにタレ込んだポール・プレンターの嫉妬心から出た妄想かもしれません。ポールは情報を提供して500万円ぐらい貰いましたし、マスコミ側はとにかく売れる情報が欲しいわけですからね。
フレディの死後、ロジャーはそのような噂をきっぱりと否定し、フレディはそんな人ではない、そんなことを言うやつらとは断固として戦う、自分は立ち上がる! とテレビで宣言した姿には、私も涙を誘われました。
フレディは恋多き人でしたが、本当に好きな人と付き合っていたのかもしれません。
盟友のロジャーなら、本当のことを知っていたはずです。

マスコミによって広められたフレディの姿に、私たちも毒されているのかもしれません。
フレディの真の姿は、もっと真面目で純粋な努力家だったのではないでしょうか?
私たちはフレディの名誉回復をしなくてはならないのかもしれませんね。
フレディの顔
そうでしょう〜

フレディはパーティが好きで、派手好きだったとされていますが、それはみんなを楽しませるために行なったことで、自分は楽しそうにしているみんなを見ているのが好きだったそうです。ゾロアスター教では、他人に善い行ないをすべしとしているので、フレディはその通りにしていたのです。
よく沢山の買い物をして浪費したようですが、それもみんなに贈り物をするためで、人を喜ばせるためでした。

ロンドンのフレディのヴィラとは、ガーデンロッジのことでしょうか。
1902年のナショナル・ジオグラフィックによると、その家にはゾロアスターの古い絵と、多くの光の源(?)があり、ゾロアスターのライフスタイルの影響があるそうです。

フレディの音楽にも、ゾロアスターの影響が現われています。
セカンドアルバムのホワイトサイド、ブラックサイドや、ホワイトクイーンとブラッククイーン、また白黒の衣裳や、フレディの黒いネイルとブライアンの白いネイルなどは、ゾロアスター教の二元論を表しています。
さらに、「I was born to love you」には、白い服や緑の色使い、鏡を使うこと、ボウルの火、結婚のダンス、初めての公的なキスなど、ゾロアスター教の結婚のシンボルが多用されているそうです。

フレディはゾロアスター教徒のパールシーでした。
毎日ヨガを行ない、求道者的な面がありました。
よく音楽や文学、美術に親しみ、美と芸術を愛したボヘミアンでした。
彼は「フレディ・マーキュリーとは外側の仮面であり、本当の自分との間には壁を作っているので、誰も自分の中には入れないし、本当の自分を知ることはできない」と言っています。
人々はマスコミの垂れ流すように、面白おかしくフレディを語ってしまいますが、
本当のフレディとは、美と芸術を愛するパールシーなのではないでしょうか?






フレディとゾロアスター教

フレディはパールシーという、ペルシャ人のゾロアスター教徒の家系に生まれました。
本人はあまり熱心な信者ではなかったといわれますが、逆に熱心な信者だったという説もあります。
ネットではゾロアスター教とは、マイナーな宗教であり、フレディはマイノリティーだったということになっていますが、果たしてゾロアスター教とはどのような宗教だったのでしょうか?

ゾロアスター教は、古代イランの多神教をゾロアスターが体系付けたものとされています。
しかしゾロアスターは実在の人物とされるものの、その年代は紀元前1000年〜紀元前500年ぐらいまでという曖昧なもので、どこで出生したのかもはっきりわかっていません。
古代のイランでは多くの神々、とくに太陽神ミトラが崇拝されていましたが、ゾロアスターはアフラ・マズダーを最高神とし、その下に聖なる七大天使(アムシャ・スプンタ)を従えているとしました。
アフラ・マズダーは善きものの最高神であり、それに対して悪しきものの最高神がアンラ・マンユです。
悪神アンラ・マンユは、悪魔ダエーワを通して悪の活動をするので、人間はこの悪と戦っていかなければなりません。
これがゾロアスター教の二元論です。
フレディは「ホワイトクイーンとブラッククイーン」、白黒の衣裳などで、この二元論を表現していると思います。
フレディ白黒
ま、そういうことだね。

ゾロアスター教の教え。善い考え、善い言葉、善い行いと書かれている。
ゾロアスター教の教え


人間は死ぬと、肉体と魂が分離します。
魂は死後3日間は、死者の近くにいますが、4日目に「チンワトの橋」へ向かいます。
ここで生前の行ないの、善と悪の量が計られて、善が多かった魂は「チンワトの橋」を渡って天国へ入りますが、
悪の方が多かった魂は橋から落ちてしまい、地獄へ行くことになります。
フレディはインタビューで、「死んだら天国なんか行きたくない、地獄の方が面白そうだ」と言っていましたが、それはもちろんゾロアスター教の教義を知っていたからですね。
フレディも4日目に「チンワトの橋」へ行ったのでしょうか?
(最近、ペットが死んだ後に、ペットが天国の入り口の「虹の橋」のたもとで、飼い主に再会することを待っているという話が広がっていますが、これはゾロアスター教の「チンワトの橋」から来ていると思います。)

ゾロアスター教の教義には天地創造、光と闇の闘争、天国と地獄、終末思想、最後の審判、救世主、洗礼の儀式などが含まれており、ゾロアスター教の後に生まれたユダヤ教、キリスト教、イスラム教などに多大な影響を与えました。
ゾロアスター教は、今の世界で最も多く信仰されている現代宗教の親のような存在だったのです!  つまり本家本元です!
一時はペルシャのササン朝時代に国教にもなり、決してマイナーな宗教だったわけではありませんでした。
古代ギリシャのピタゴラスやプラトンにも影響を与えています。

ゾロアスター教寺院の内部
ゾロアスター教寺院の内部


ゾロアスター教の宇宙論では、宇宙には12000年の周期があり、3000年ずつ4つの時代に分けられています。
はじめの3000年で、目に見えない霊的世界(メーノーグ)が創造されました。
その次の3000年で、目に見える物質世界(ゲーティーグ)が造られます。
そして次の3000年では、アンラ・マンユによって宇宙が攻撃され、汚されます。原人間ガヨーマルトが殺害され、人間が生まれます。
 全人類は光と闇の闘争に、否応なく参加させられることになります。人間は皆「光の戦士」なのです!
最後の3000年が今の時代で、ゾロアスターの誕生に始まり、宇宙は徐々に浄化されていきます。
 そして最後の57年間を救世主が統治した後、最終戦争が起こり、世界は溶鉱の中に溶け去って再生し、新しい宇宙の更新が行なわれます。世界の終末では、最後の審判が行なわれ、生者も死者も改めて選別され、新しい善なる宇宙で永遠の命が与えられます。
 ということは、最後の審判の時に、フレディも私たちもみんな一緒に裁かれることになるのですね! わお!!

ゾロアスター教の聖典は「アヴェスター」ですが、これはゾロアスターの死後の、紀元後4〜6世紀頃に編纂されたものになります。
「アヴェスター」の一部で、「ヤスナ」72章のうち17章がゾロアスターの自作とされているのですが、それ以外の大部分は他の人が編纂したものになります。
アケメネス朝が滅亡した時に大部分が失われ、その後修復されたものの、イスラム教時代になると4分の3が失われてしまいました。
ゾロアスター自身の言葉として伝わるものは少なく、もともと牛の皮に書かれたものなので、時代が経ると判読も困難になるでしょう。
だからフレディに関連して問いたいのは、ゾロアスター教で「同性愛の選択は悪」とされているのは、誰の言葉で、いつの時代に定められたものなのか、ということなのです。
ゾロアスター教がペルシャの国教になると、生活宗教として民衆の生活を律するものとする必要があったため、後から付け加えられた可能性もあります。
「アヴェスター」に書かれているとしても、それが本当にゾロアスターの伝えたい真実であったのかどうか、克明に分類することは難しいでしょう。
どなたか詳しい方は教えてください。よろしくお願い致します。

ゾロアスターの聖なる火
ゾロアスターの聖なる火

ゾロアスター教は、西に伝わると古代ギリシャに影響を与え、また東のインド、中国から日本にまで伝わりました。
飛鳥時代や奈良時代には、ペルシャ人が渡来していたことがわかっていますので、日本の建国に関わっていることになります。
あくまで仮定ですが、平家はペルシャ人の末裔ではないかとする説や、聖徳太子の母親はペルシャ人だったという説もあります。
仏教の真言宗の「護摩炊き」や、東大寺の「お水取り」、お盆の送り火、お正月の松飾りを焼く「どんど焼き」なども、日本の風習の中にゾロアスター教(拝火教)が溶け込んでいます。
私たちも知らないうちに、お盆の送り火を炊いたりして、ゾロアスター教徒をやっていたわけですから驚きですね!
東大寺の「お水取り」はお水とはいえ、内容は「火祭り」で、大きな松明を燃やして、参詣者が火の粉を浴びると、その年は病気にならないとされます。私も行ったことがありますが、火の粉は熱くて恐いので逃げてしまいました。3月の春分のお祭りですね。
その他にも「人形供養」など、大事なものを火にくべて、感謝と浄化を行なうというのは、日本人の心性ではないでしょうか。
お正月に神社で、前年のお札をやお守りを燃やしていますね。
また、オリンピックの聖火リレーも、ゾロアスター教から来ているそうです。

フレディは日本が好きでしたが、日本にはゾロアスター教が伝来し、人々の生活に溶け込んでいることを知っていた、或いは感じ取ったのではないでしょうか?
何かペルシャと日本に共通するものがあることを知っていたのではないでしょうか。
日本の着物の帯などには、よくペルシャ文様が取り入れられていますし、私もイランで買ってきた銀の燭台や、青いガラスの花瓶を大切にしています。
だから、日本人がフレディを好きなのは、日本人とペルシャ人に共通するものを、みんなが感じ取っているからではないでしょうか!?
日本人はフレディに親近感を感じてしまうのです。
フレディの遠い先祖が、日本に来たこともあったかもしれないでしょう?!
私は自分がペルシャを好きなのは、きっと先祖のDNAにペルシャが混じっているからではないかなと思っています。
日本人にはきっとそういう人が沢山いると思います。




プロフィール

楽園のペリ

Author:楽園のペリ
1975年、初来日の武道館でクイーンを体験、フレディのファンになる。長らくクイーンのことは忘れていたが、映画を見て思い出し、フレディについて研究するうち、ついにロンドンのガーデンロッジや、モントルーのクイーンスタジオまで行ってきました!

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