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ペルシャのフレディ

フレディの一族はゾロアスター教徒のパールシーで、先祖はペルシャの出身です。
もとはペルシャに住んでいたのですが、700年頃にイスラム教の迫害に会い、インドへ逃れてきました。
パールシーは代々父親がゾロアスター教徒でなくてはならず、他民族との混血を避けてきたので、現在のアラブとの混血が進んだイランよりも、ペルシャの純粋な血筋が保たれているといわれます。つまり純粋なアーリア人の血統なのです。
確かにテレビで、サッカーのイラン代表の面々を見ると、フレディの顔立ちとは違います。
私たちはフレディのおかげで、純粋なペルシャ人(アーリア人)のお顔を拝見することができたのです。

私は20年ぐらい前にイランへ行ったことがあるのですが、
今までに訪ねたことのある国の中で、イランは最も印象的だった国です。大好きな国です!
フレディの出身については、1975年の初来日の頃には、ただイギリス人とされていたので、
イギリス人にしては色が黒いなとか、イギリスにも移民が多くて混血したのかなと思った程度でした。
それが本当はアフリカ生まれのインド育ちで、ゾロアスター教のパールシーであることを知ったのは、いつだっただろうか?
フレディが亡くなってからだと思うし、はっきりと認識したのは最近のことかもしれない。
アフリカとインドもすごいけれど、とくにペルシャというのが私には激しく惹きつけられる要因だったのです!
「アフリカ生まれで、インド育ちのペルシャ人!!」これはまさに完璧に理想的な人物であり、忘れられなくなりました。

なぜそんなにペルシャが好きなのか?
ペルシャは、世界最古といわれるメソポタミア文明の影響を受け、紀元前2000年ごろからアーリア人が文化の基礎を築きました。
長い歴史の中で、多くの民族による様々な王朝が興亡を繰り返してきたのですが、
紀元前6世紀にはダレイオス1世によってアケメネス朝が成立し、ゾロアスター教の教義が整えられます。
3世紀から7世紀のササン朝に至るまで、ゾロアスター教はペルシャの国教となり、思想的柱になりました。
ペルシャで最も面白いのはこの時期で、その後7世紀からはイスラム勢力の統治下に入ってしまいます。

ペルセポリスは紀元前500年頃に、ダレイオス1世が建設したアケメネス朝の都。
本当に2500年の悠久の時を感じさせられます。
ペルセポリス1

ペルセポリスの庭ではライオンが飼われていました。
紀元前331年、アレクサンダー大王によって焼かれ、破壊されて廃墟となりました。
ペルセポリス2

時代は下り、イスファハンは16世紀から18世紀にかけて栄えた、サファヴィー朝の古都です。
「世界の半分」といわれた華麗なペルシャ建築には驚嘆します。
イスファハン

ペルシャ式庭園には、中央に池が作られ、周囲に植物が繁茂しています。
これは天国の様子を地上に投影したもので、まさに地上の楽園なのです。
こうした庭園にはとても惹きつけられますし、地下に作られた池も神秘的です。
雨が少なく、乾燥しているので、水を大切にしています。生命の源だからですね。
フレディは自宅に日本庭園を作りましたが、ペルシャ式庭園も良かったのにねえ。
ペルシャ式庭園

イランに行って面白かったのは、ペルシャの古い建築が日本に伝わり、天井の作り方などがそっくりだったこと。
日本では飛鳥時代、奈良時代からペルシャとの交流があり、正倉院にペルシャのガラス器などが収められていますね。
そして西洋にもペルシャ建築が伝播して、ドイツの中世のお城の天井がそっくりだったのを見た時(ヴァルトブルク城)、
ペルシャ文化の偉大さに感動したのです。
古代ペルシャからの偉大な文化を背負ったフレディを見た時、まるでペルシャの王子が蘇ったかのように感じたのは、
単なる私の妄想なのでしょうか ?
クイーンの音楽がイランでも販売されたことはありますが、フレディはイランへ行ったことはないようですね。
フレディがイランへ行ったらどうだったでしょう?
「ペルシャのフレディ」なんて素敵だなあ!

なんと「プリンス・オブ・ペルシャ」という映画がありました。
このプリンスは武闘派なので、ちょっとイメージとは違うけど。
プリンス・オブ・ペルシャ


ちなみに私のハンドルネーム「楽園のペリ」のペリとは、ペルシャの妖精の名前です。
フランスの画家モローが描いたペリの絵が好きで、自宅に飾っています。
モローのぺり










インドのフレディ

アフリカの次は、フレディが育ったインドですが、これまたすごいぞインド!!
私が初めて訪れた外国はアフリカのケニアとタンザニアだったが、インドもまた魅了された国である。
残念なことにフレディはあまりインドについて触れられたくなかったそうだが、それはロンドンで差別される恐れがあったからだろうか。
インドは素晴らしい国である!!
なぜなら、世界四大文明の一つ、インダス文明の故郷であり、インド哲学を育くみ、ヨガが生まれ、仏教が発祥したところだから。
他にも数学や天文学が発達しており、アユルヴェーダという医学や、ジョーティシュという占星学、インド舞踊にインド古典音楽など、枚挙にいとまがないほど素晴らしい文化の揺籃の地であり、人類の叡智の宝庫なのです!!
なぜそれをフレディが隠したがったのか、私は理解に苦しむのです。
フレディはアフリカの大自然の中で強い生命力と、ロックのルーツであるアフリカのリズムを身の内に取り込み、
次にインドの崇高な文明の中で育ったことで、スーパースターへの礎を築いたのです!
更にはペルシャのルーツを持つことが決定打となっているのですが、それはまた後に解析します。
フレディは本当に「アフリカ・インド・ペルシャ」という、地上最強にして最高のハイブリッドなのです!!

インドについて書く前に、確認しておきたいのですが、
ネットではよくフレディは「ペルシャ系インド人」と書かれていますが、 はぁ? インド人? フレディが?
冗談はやめてください。フレディはインド人ではありません。ペルシャ人です!
こうしたあたり、私は若い方たちにお願いしたいのですが、ネットに書かれていることを安易に信じないでください。
誰かが書いていることをそのままコピペしても、それが正しいかどうかはわかりません。
どうかネットに頼らずに、自分で資料を確認してください。
私もなるべく正しいことを書くように努力しています。
それでも記憶違いなどがあるかもしれませんから、もし間違いがあれば指摘してください。

ムンバイのタジマハール・ホテルはパールシーのタタが経営。
2008年にテロが起こってしまった。
ムンバイのタジマハールホテル

今日はインドについて書こうと思ったので、フレディのルーツであるペルシャについてはまた後日にします。
私は30年ぐらい前にヨガ (正しくはハタ・ヨガ)を習い、今でも時々自分で行っていますので、インドには親しみを持っています。
ヨガのインストラクターにならないかと誘われたこともあったのですが、そちらの方向には行きませんでした。
ヨガの理論では、人間の身体にはプラーナという生命力が宿っており、プラーナはナーディという細い管を通って身中に運ばれ、
身体中央のスシュムナーという太い管に沿って、7つのチャクラが置かれています。
チャクラについては、きいたことのある人も多いと思います。

インド哲学とは、古代インドに始まり、とくにバラモン教の聖典ヴェーダに記されたウパニシャドを受け継ぐ6つの学派があります。
ウパニシャドとは、サンスクリット語で「奥義」や「秘伝」を意味する一連の書物のことです。
ウパニシャドの根本は、「梵我一如」の思想であり、これは自分の内奥にある「アートマン」とつながることにより、宇宙の最高原理である「ブラフマン」と合一することができるという考えです。
これは世界のほとんどの宗教や思想と同じもので、人間が求めるものはこれに尽きるといっても過言ではありません。
問題はそこに至るまでの方法ですから、それについての議論が長年にわたって続けられているのが宗教思想界でしょう。
または、宗教を政治利用とする人たちは、「梵我一如」を民衆に知られないように隠している一派もあります。

仏教もインド発祥ですから、日本人には馴染み深いもの。
お寺に行ったことがない人はいないでしょう。
自分の家のお墓が、お寺にある人もいるでしょう。
8月のお盆も、日本の祖霊信仰と仏教が融合したものといわれています。
お盆のボンとは、サンスクリット語のウラムバナから来ているそうですが、イランのアヴェスタ語で「魂」を意味する「ウルバン」が元になっているという説もあります。イラン=ベルシャまで繋がっているのですね。

インドの思想はアメリカのニューエイジ運動に影響を与え、
ビートルズも1968年にインドを訪れて、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーから瞑想の指導を受けました。
これは大きなニュースとなり、他のミュージシャンや女優もインドへやって来ます。
1964年にロンドンへ渡ったフレディは、彼らのインド行きをどう思ったことでしょうね?

美しいタージマハール
タージマハール


フレディは8才からパンチガニのセント・ペータース・ボーイズスクールで過ごしますが、これは思いっきりキリスト教の名前ですね。カトリックです。
学校の中ではイギリス式の教育を受けたことでしょう。
フレディはあまり英語の訛りもないようなので、先生はイギリス人だったのでしょうか。
でも8才で一人で親元を離れるというのは、どんなに淋しかったことでしょう! 
小学校3年生ですから、まだ小さな子供です。
当時はザンジバルからムンバイまで、船で10日間もかかったそうですから、ものすごい距離です。
ムンバイという呼称についてですが、1995年まではボンベイでした。
そして2016年にボンベイに戻すと発表されたので、今はボンベイなのでしょうか?
とにかくフレディがいた頃はボンベイでしたし、私たちもボンベイの方がピンと来ますね。
パンチガニは高原にあったため、インドでも涼しい気候です。
ザンジバルの海辺の常夏の気候から、涼しい高原に移ったフレディは、きっと寒さと寂しさで随分泣いたことでしょう。かわいそうに。
パンチガニはプネーの側なので、やはりパールシーが多い土地として、ご両親も安心だったのでしょう。

一人で家族から離れたフレディは、ラジオから流れる音楽にどんなに慰められたことでしょう。
そして12才でバンド「ヘクティクス」を結成します。
hecticとは、「大騒ぎ」という意味で、興奮や熱狂を表します。
小学生の頃からバカ騒ぎが好きだったんですねえ。でもこれは寂しさの裏返しではないのでしょうか?
私の周りでも、とても明るくて賑やかな人は、子供の頃にとても苦労したことがある人だったりします。
私も人生の逆境にあった時、もう笑うしかない! というところまで追い詰められたことがあり、それ以来性格が前より明るくなったような気がするのですが。

パンチガニの後は、ボンベイのセント・メリーズ・スクールという高校に進学します。
ボンベイは仕事で行ったことがありますが、12月でも30度ぐらいあり暑かった。海辺なので湿度も高い。
朝5時ぐらいからイスラム教のコーランが鳴り響くので、朝の安眠はできない町なのです。
気候は雨季と乾季があり、サバナ気候といわれ、アフリカ大陸東岸の草原地帯と似ているそうなので、フレディは生まれ故郷に戻ったような気分だったのではないだろうか。お祖母さんと叔母さんと一緒に住んでいたそうです。
ボンベイは人口1800万人の大都市で、日本でいえば大阪のような華やかな商都です。
この街で暮らす高校生ならば、きっと街の映画館や喫茶店など、色々と遊びに行ったことでしょう。

「Jazz」に入っている「ムスタファ」という歌は、このボンベイで聞いていたコーランの記憶なのではないでしょうか?
この歌詞は英語、アラビア語、ペルシャ語、グジャラート語、スワヒリ語、または造語が使われているそうで、
なかなか解読は難しいようです。
フレディの遍歴が詰まっています。
フレデイこそが「ボヘミアン」なのですね。

インドで特筆すべきは、ボンベイ版ハリウッド映画、「ボリウッド」です。
インドの煌びやかな色彩に満ちたコミカルな映画で、美男美女の俳優たちが歌ったり踊ったりで、とても楽しい娯楽に仕上げられています。
フレディは必ずこれを見たことがあるはずです。
フレディはミュージカルが好きでしたが、ボリウッド歌手のラタ・マンゲシュカから影響を受けたそうです。。
フレディはインドではプレスリー、クリフ・リチャード、リトル・リチャードが好きだったので、あまりボリウッドの影響は受けていないとされていますが、全くなかったわけではないでしょう。
もしもの話はしても仕方がありませんが、ザンジバルから避難した時に、もしロンドンではなくボンベイに行ったとしたら、フレディはボリウッドのスターになっていたかもしれない等と想像すると思わずニヤニヤしてしまうのです。いや絶対ウケますよ、これ。
そしてボリウッドからハリウッドへ行き、ハリウッドのスターとして、私たちはフレディを知ることになったかもしれない。
なんて想像すると楽しいですよね。フレディもハリウッドは好きだったし。

ボリウッド映画
ボリウッド


インドについて、また長くなるといけませんね。
でもね、インドについて書くとなると、すぐには終わらないですよ。
本当はもっと短くしたいと思っているんです。だんだん短くしますので、ちょっと我慢してください。
私がインドに行って感じたことを書きます。
私はインドへ仕事で3週間行き、ニューデリーとボンベイ、バンガロールを訪れました。
バンガロールは南インドですが、高原なので涼しいIT産業の町です。
とにかく人口が多いので、交通量も多く、交通のマナーも無茶苦茶なので、道を渡るのも一苦労です。
日本人の留学生で交通事故に遭い、植物状態になってしまった人もいました。
貧富の差が激しくて物乞いの人たちがいることはご存じだと思いますが、お金持ちはこれまたすごいお金持ちなのです!
とくにすごいのがマハラジャといわれる領主で、1947年の独立後もマハラジャの称号は存続していたので、フレディがいた頃には実際のマハラジャが存在したのですね。
1971年にマハラジャや貴族に対する年金が廃止され、マハラジャの称号も禁止されましたが、現在でも豪華な城に暮らすマハラジャの子孫がいるそうです。
フレディは豪華なものが好きですが、このようなマハラジャの存在を知っていたからこそ、そのような暮らしに憧れたのではないでしょうか?
マハラジャの館

そしてインドでは、日本と違って価値が多様です。価値の転倒も起こり得ます。
たとえば、インドで安いサファイヤを買った人が、日本に持ち帰ったら500万円で売れたという話を聞きました。
もし貧しいインドの人だったら、500万円は大変な金額です。一夜にして大金持ちにもなり得るのです。
また、今日の新聞に載っていたのですが、インドで70才の女性が出産したそうです。
もちろん帝王切開なのですが、提供者の卵子と、旦那さんの精子を使って妊娠したそうです。
インドでの最高齢出産者は72才だそうです。
日本ではちょっと考えられない話ですよね。
インドでは、というかアジアでは、買い物もお店の人と交渉して安くしてもらい、値段を決めるので、
日本のように初めから決まっているということはありません。
「価値が決まっていない、価値は自分で決める、価値が飛躍するかもしれない」、という考え方をフレディはインドで身につけたのではないでしょうか。

フレディはインドのことを語りませんでしたが、
インド料理は好きだし、カレーを食べている写真もあったし、バナナも好きだし、やはりインドが好きだったのではないでしょうか。
アールズコートのフレディ邸の近くにインド料理店があったので、フレディも通ったのかもしれません。
インドはバナナの生産量が世界一です。
インドは素晴らしい国です!
インドに行ってみませんか?

インドは、まさにミラクルな国です! (ミラクルは奇跡、驚異)

それを言うなら、ペルシャはマジックの国だね!

南アフリカ公演とライブエイド

フレディがロンドンへ移住した後に、アフリカと関係したことは2回あります。
ひとつは1984年のクイーンの南アフリカ公演で、もうひとつは1985年のライブエイドですね。

南アフリカ公演で、フレディはザンジバル脱出以来、はじめてアフリカの地に足を踏み入れることになります。
その時の感慨はいかばかりだったかと想像されます。
ところが南アフリカはアパルトヘイト(人種隔離政策)をとっていたために、イギリスのミュージシャン組合は公演を禁止していました。
イギリスのミュージシャン組合というのは、知り合いの日本人ミュージシャンにきいたところ、とても結束力と影響力が強くて、日本人がイギリスで演奏するのは難しいそうなのです。
そのようなユニオン(組合)に反対してまで、クイーンは南アフリカからの招聘に応じて、公演することを決意しました。
クイーンはアパルトヘイトには反対だったにも関わらず、敢えて南アフリカ公演を行なったことで「金儲けだ」と非難され、組合には違約金を払わされ、ついに国連のブラックリストに載せられてしまいました。
そして世間からは批判され、反アパルトヘイト団体はデモ行進し、レコードセールスは低下してしまいます。
日本では常にクイーンを暖かく迎えていましたから、クイーンがこのような苦労をしていたとは知られざる事実だったのですね。
でも非難した人たちは考えてみてほしい、フレディは白人ではないし、アフリカ生まれだし、多民族の中で暮らしていて、イギリスでは移民として逆に差別を受ける立場だったことを。
フレディにはザンジバルで黒人の子守がいて、黒人とは仲良くしていたので、あまり深く考えなかったのかもしれないが、やはり黒人を使用人として差別していたとは思わなかったのでしょうか。
フレディは「自分たちがある国で演奏したことは、その国の政策に賛同するという意味ではない」と弁明したそうですが、白人と黒人を分ける政策の国で、白人だけのリゾート地で演奏したのですから、いくら弁明しても無駄というもの。
フレディたちは余りにも無邪気に、南アフリカの招聘に応じてしまったようです。
フレディの無邪気さは、恋愛関係においても慎重さを欠き、結果的に命取りになってしまったわけですから。
南アフリカ公演の頃



南アフリカ公演の後は、クイーンの解散説まで噂されるようになりますが、それを吹き飛ばしたのが翌年のライブエイドです。
ライブエイドは、エチオピアの飢餓救済のため、ロンドンのウェンブリー・スタジアムと、フィラデルフィアのジョン・F・ケネディ・スタジアムの2カ所で行なわれ、そのテレビ中継を合わせると、世界で19億人が視聴したとされています。
ライブエイド

クイーンは入念にリハーサルを行った後、最高のライブ演奏を行ない、38才のフレディの雄姿を今でもネットで見ることができます。
前年に行った南アフリカ公演のため、人気が下降していたクイーンにとって、ライブエイドは最大の復活の場となりました。
このステージに対しては、世間からも歓びをもって迎えられ、ボラプ映画のお父さんも良いことをしたと褒めてくれましたが、・・・ちょっと待ってください。
アフリカの飢餓は何故起こるのでしょうか?
それは、元々の発端はヨーロッパの植民地政策にあります。
19世紀の後半から、アフリカはイギリスやフランスの植民地となりますが、第二次世界大戦後の1960年頃から、アフリカ諸国は次々と独立を果たしました。ザンジバル革命もその一つですね。
ところが独立後の国境を適当に決めてしまったために、今でも民族・宗教・文化の違いによって紛争が絶えない地域が沢山あるのです。
飢餓が起こる原因の一つは、紛争です。
紛争は、一部の人が富を独占することによって起こります。
武器商人たちは、紛争を起こしたくて仕方がないので、不満分子や政府に武器を売りつけます。
武器が手に入ると紛争が起き、食料が作れなくなり、飢餓が発生します。
 つまり、イギリスは植民地政策を行なっていたために、アフリカの飢餓の原因を作っていたのです。
それなのに、飢餓の救済をするためにチャリティーコンサートを行なうというのは、何か自作自演のような違和感がありませんか?
もちろんライブエイドを企画したボブ・ゲルドフや、フレディたちの世代には直接の責任はありませんが、このような自作自演劇をマッチポンプというのですね。

もう一つの飢餓の原因は、換金作物の栽培です。
換金作物とは、米、とうもろこし、大豆、砂糖、コーヒー、カカオ等で、国際機関や他国のアグリビジネス企業が融資し、
農薬肥料を売りつけます。これらの作物を作って儲ける人たちが、持続不可能な農業を行ない、環境を破壊します。
日本でもこうした作物を輸入していますので、私たちも無関係ではありません。

さらに近くの農地を買いあさり、森林を切り開き、大規模な農業が行われて、その作物を買い取る他国のものだけが富を独占します。
やがて小規模な農家はいなくなり、低賃金で働かされる農民が増えていき、多くの人が食料を自給できず、飢餓が起こります。
その後で、遺伝子組み換え作物を栽培する大国が、富み栄えていくのです。

ですから、アフリカの飢餓救済のためには、本当は一度だけのチャリティーではなく、
アフリカの人々が自分たちで食べていかれるように農業や教育の支援していくことが大切なのです。
もちろん何もしないよりはチャリティーでも行なった方が良いのですが、
いくら食べ物などを送っても、一度だけでは、それがなくなればまた食べられなくなってしまいます。
私たちに一体何ができるのか、考えなくてはなりませんね。

「Is this the World we created?」(悲しき世界)は、フレディがミュンヘンでアフリカ貧困のニュースを見て作り、
1984年の「ワークス」に収録されたものです。

俺たちが食べさせるべき
あらゆる空腹な口を見よ
俺たちが生み出した
全ての苦痛を見よ
あちこちに散らばっている孤独な顔
必要なものを探し続けている

フレディもアフリカの飢餓には心を痛めていたことがわかりますが、
何といっても南アフリカのサンシティー問題の後だったので、周囲からは白々しいと思われたようです。
現在アフリカの人口は12億人、これからも益々の増加が予想されていますから、本当に難しい問題ですね。

というわけで、私はフレディのことを書こうと思っていたというのに、
書いているうちに、人種差別やアフリカの飢餓のこと、紛争のことなど、どんどん話が広がっていってしまうのです。
フレディは本当に生涯に多くの問題に関わった人であり、色々と勉強させていただいております。
地球上を駆け巡ったスケールの大きな人だから、仕方ないなあ。
フレディのおかげで、沢山のことを知ることができます。
何かフレディは人間として、地球の重要な結節点に関わっている気がします。
それがトリガーとなって、私たちを気付かせ、目覚めさせてくれるのです。
フレディ本人は余り何も気にしていなかったかもしれませんけど。(笑)




ザンジバル革命とフレディ

今日はフレディの73回目の誕生日だった。
お誕生日おめでとう、フレディ!!
奇しくもフレディが生まれたザンジバルについて書いている。
私は子供の頃からアフリカが大好きで、アフリカの大自然に憧れていました。
とくに動物が好きだったので、子供の頃は動物学者になりたいと思っていたのです。
そのため、20代で初めて外国に出た時、その行き先はアフリカのケニアとタンザニアでした。
アセンボリ国立公園でサファリを体験し、6000メートル近いキリマンジャロの秀麗な姿を目撃したことは、今でもはっきりと瞼に焼き付いています。
タンザニアのキリマンジャロからザンジバルまでは、400kmぐらい、飛行機で1時間の距離だったのですね。

子供の頃から憧れて、初めての海外旅行だったアフリカ、
インドには仕事で3週間ほど滞在し、インドの政府機関からも接待していただきました。
今までに20数カ国を訪れましたが、最も印象が強かったのはイラン(ペルシャ)です。
そしてヨーロッパは、子供の頃からヨーロッパ文化の勉強をしているので、故郷のように感じます。
つまり何故かフレディの生育歴と、私が強い印象を感じる場所が共通しているので、特別にシンパシーを感じてしまうのですよ。
フレディがツアーで回ったところと、私が訪問した国もかなり似ていて、私もブダペスト、ニューヨーク、パリ、ウィーン、ミュンヘンなどに行ったことがあります。どうしてこんなに似ているのか不思議。

ザンジバルは青く透明な海と、白いサンゴ礁に囲まれた島で、ストーンタウンは2000年に世界遺産に登録されています。
常夏の島、美しい楽園ではありますが、歴史的には幾多の苦難をかいくぐって来ており、
大航海時代にはポルトガル領となり、その後オマーンの支配を経て、イギリス領となります。
その間、ザンジバルはアフリカ全土から集められた奴隷と象牙、金などを輸出する港町として栄えました。
ザンジバルの海岸

しかし1950年代から、次第にイギリス統治に反発して、独立を求める動きが始まります。
50年代といえば、フレディがインドの全寮制ボーイズスクールに入っていた頃ですから、フレディの両親は子供をインドへ行かせた方が安全だという考えもあったのでしょうか?
そして1961年からは流血騒ぎが起こるようになり、遂に1963年12月にアラブ人サイード家をスルタンとしたザンジバル王国として、イギリスから独立を宣言しました。フレディがインドから帰ってきて一年も経たないうちです。
しかし原住民の黒人たちは、依然としてアラブ人の支配を受けることに不満を抱いていました。
独立から一ヶ月後の1964年1月、26才の黒人青年オケロが武装して暴動を起こします。
すぐにスルタンは国外へ逃亡して、イギリスへ逃れました。
この時に、怒り狂った黒人たちがアラブ人やインド系の住民を襲撃し、3日間で12000人もの人たちが虐殺されました。

これが「ザンジバル革命」です。
複雑でわかりにくいので、私も勉強しました。
このザンジバル革命とフレディについて、誰も言及している人はいませんが、私はここに注目します。
フレディが17才の時に、革命が勃発し、35万人の島民のうち12000 (または15000人という説もある)が殺され、2万人が逮捕されました。このすさまじい暴力の嵐を、フレディは身の回りに実感したし、海岸に並べられた夥しい数の死体も目撃したかもしれません。
そのショックと恐怖はどれほどのことだったことでしょう!? 殺される人々の悲鳴も聞こえたかもしれせん。
しかも、黒人たちから向けられた憎悪は、黒人を支配するものたちへ向けられたのですから、フレディ一家も大変な危険に晒されます。フレディ自身も死の恐怖を感じたことでしょう。
この激しい恐怖を17歳で体験したこと、これはフレディの人格形成に決定的な影響を与えたと思います。
17才というのは、人生の中でも最もセンシティブで傷つきやすい年齢です。危険な年齢と言うこともできます。

たとえば、音楽の好みで言うと、17才頃に好きだった音楽は、その人は一生忘れないと言われます。
17才でビートルズが好きだった人は、一生ビートルズが好きですし、17才でクイーンが好きだった人は、一生クイーンが好きなのです。(えっ、それっと、もしかして私のこと?)
では17才で地獄の阿鼻叫喚を体験したフレディは・・・???
やはり一生その傷を背負っていたのではないでしょうか?
フレディは常に楽しいことを求め、最後まで人生を楽しもうとしていました。
それは彼の中に「楽しくない何か」があったからではないか?
普通の人は、フレディほどは楽しいことを追求しなくても、そこそこ幸せに暮らしているわけですから、彼にはどうしても振り払わなければならない「楽しくないこと」が付きまとっていたのかもしれません。
私はそれを「ザンジバル革命」に見るのです。

ザンジバル革命によって、命の危険を感じたフレディですが、それだけではなく、革命の意味を考えたことでしょう。
自分たちが正しいと思って行ってきた「イギリス統治」を憎んでいる人々がいたこと。
自分たちは黒人を支配し、搾取する側であったこと。
それはまだ未成年であったフレディの責任ではないけれど、彼も罪責感を感じたであろうか?
当時、奴隷制度は既に廃止されていたけれど、奴隷制度の痕跡が残るザンジバルで、何か思うところがあっただろうか?
おそらく、この世の不公平、理不尽さ、そして己の無力さについて、深く感じるところがあったのではないだろうか?
そしてフレディは、深い傷を負ったまま、イギリスへと旅立つのである。

フレディは、イギリス以前の話をしなかったと言われるが、それは余りに深く傷ついていたので、とても話が出来なかったのではないでろうか? (インドではそのようなことはないが)
日本と、台湾や朝鮮の関係に置き換えてみるとわかりやすいが、
日本が台湾を統治していた時代、日本と台湾はわりと友好的だったので、台湾で暮らしていた時の話をする日本人も存在する。
私が知っている人で、日本の台湾総督府の関係者だった人は、良い暮らしだった当時を懐かしみ、一生お姫様気分が抜けなかった。
(やっぱりフレディも王子様なのかな?)
それに対して、朝鮮に駐留していた人は、あまり当時のことは話したがらない。反日感情を意識しているのだろうか。
フレディもザンジバルを訪れることは、二度となかった。

フレディ一家がイギリスへ渡った時、家の財産を持ち出すことはできただろうか ?
ザンジバルでは多くのアラブ人が財産を没収されたという。
私の友人の祖父は、戦争中に満州で病院の医師をしていたが、医師は日本の上層部にいたので、戦況の情報が入りやすく、敗戦が近くなってくると早めに満州を引き上げ、財産を持ち帰ることができたという。
フレディ家もザンジバルの上層部にいたが、戦争とは違って革命の場合は、突発的に暴動が起こり、事態の予測は難しかったかもしれない。イギリスのフェルサムの様子からすると、あまり財産は持ち出せなかったのかもしれない。

このようなフレディが語らなかったことを、暴露するようなことは、あまり快く思わない人もいるかもしれない。
でも私はフレディを貶めるようなつもりは全くなくて、逆に人生の大変な苦労をしたフレディだからこそ、それを乗り越える努力を続け、あのような素晴らしい歌が歌えるようになったということを賞賛したいのだ。
インド洋を航海し、7つの海を渡り、ロンドンに降臨した不世出のボーカリスト!
革命という極限の体験と、命がけの逃避行を経験し、難民となり、移民となっても、自分のやりたい道を貫き通したロックンロール魂に乾杯しよう!!

ちなみに、イギリスの植民地からロンドンへ移住した人は、外国から来たわけではないので、移民ではないのでは?と考える人もいると思いますが、ロンドン在住の人にきいてみたところ、やはりそれは移民と見なされるそうです。
パリでも、アルジェリアから来た人は移民とされましたよね。(サッカーのジダンは「北アフリカの移民の星」として活躍しましたが)

ザンジバル革命後、革命政府は企業を国有化するなど、社会主義政策をとっていきました。
そのため、東ドイツなどの社会主義諸国が、ザンジバル革命政権を支持しました。
しかしアメリカは、ザンジバル島に人工衛星追跡基地を建設しようとしていたので、ザンジバルが「インド洋のキューバ」になることを恐れていました。
さらにザンジバル革命は、アフリカ諸国に影響を与え、革命直後にタンガニーカ、ウガンダ、ケニアでも武装勢力が反乱を起こし、周囲に衝撃が広がります。
革命から3ヶ月後の4月に、タンガニーカとザンジバルの合併が発表され、現在のタンザニア連合共和國が生まれました。
この合併について、後に「米国国務省が仕掛けた」ことが明らかになったとは驚きました!
これは当時のアメリカの外交文書に書かれていたそうなのですが、
世界というものは、こんなに遠くのアフリカの小さな島にまで、社会主義勢力やアメリカの力が及んでいて、一国のあり方を左右しているものなのですね。
そのような国の軋轢の中で命を落とす人もいれば、フレディのように押し出されていく人もいる。
そしてフレディは飛んだのだ。蝶のように。

ザンジバルの鮮やかな色彩は、フレディの衣裳にも影響を与えている。
ザンジバルの色彩



ザンジバルのフレディ

さて、ロンドンとモントルーの旅行記も終わりましたので、いよいよフレディ研究の本題に入っていきたいと思います。
フレディ・マーキュリーという不思議な人物を理解していきたいと思います。
そこでまず生まれ育ちについて。
フレディがアフリカのザンジバルで生まれて、インドで育ったことは周知のことなので、経緯は割愛します。
私が注目したのは、フレディが「アフリカ」と「インド」と「ヨーロッパ」のゴールデントライアングルの文化を、三段跳びで身につけたということ。この3つの文化の融合の成果が、フレディという人物を生み出したという事実です。
しかも、もともとのルーツは「ペルシャのゾロアスター」なのですから、もはや完璧と言うしかありません。
私は本当にフレディは不世出の天才ボーカリストだと思っていますが、それはこの生育歴から編み出されたものなので、もう今後2度と同じような人物は現れないと断言できるのです。なぜなら現在ではアフリカやインドにイギリスの植民地はなくなり、同じような生育ルートを辿ることは不可能になったためです。
 
フレディは17才でロンドンへ渡りますから、45年の生涯のうち、3分の1は非ヨーロッパで過ごしたことになります。
人生の3分の1といえば長い時間ですし、とくに子供から高校生にかけての、周囲からの影響を受けやすく、本人の感受性も鋭い年代をアジア・アフリカで過ごしたわけですから、そこからの影響は多大だったことがわかります。

アフリカのザンジバルについて。
なぜそんなにアフリカがすばらしいのか?
それは、アフリカのリズムがロックのルーツだからです!!
1940年代のアメリカで、アフリカ系アメリカ人の音楽がリズムアンドブルース呼ばれました。
ロックンロールは白人のカントリーと黒人のブルースの融合から、1954年頃に生まれたとされていますが、リズムアンドブルースの影響も大きかったのです。その後、リズム・アンド・ブルースは、60年代にはソウルミュージックとも呼ばれるようになりました。
フレディは幼少期にアフリカで、まさにロックの本家本物のリズムを体感していたのです!
フレディのリズム感の良さは、生まれた時からの環境によるものだったのです!

ザンジバルはアフリカの東海岸沖、現在のタンザニア領にあります。
フレディが住んでいたストーンタウンは、19世紀にアラブ人が作った町で、豊かな自然に恵まれ、奴隷の売買の拠点としても栄えていました。
フレディの本名、ファルーク・バルサラの家は海岸のすぐ近くにあり、潮騒の音が聞こえていたと思われます。
波の音もフレディのリズム感というか、うねるようなグルーヴ感を養ったことでしょう。
ストーンタウンは島の西側にあり、アフリカ本土を向いているので、波は小さく穏やかです。
幼いフレディは朝な夕なに海を眺め、浜辺で遊んでいたことでしょうから、広い海は少年に大志を抱かせるに充分なバックグラウンドになったはずです。
真っ赤な夕日が水平線に沈んでいく姿を眺めながら、その荘厳さに心を打たれたことも数え切れず、その海の向こうの世界に憧れを抱いたかもしれません。

ザンジバルはスワヒリ語なので、フレディもスワヒリ語はいくらか知っていたはず。
たとえば「ジャンボ!」(こんにちは)とか。バルサラ家の使用人は現地人だったので、フレディもスワヒリ語で使用人とやりとりしていたことでしょう。子供は言葉を覚えるのが早いですからね。
ちなみに、バルサラ家には使用人がいたので、裕福な家であり、フレディはおぼっちゃんだったと言われていますが、
当時のイギリス統治下のアフリカにおいては、現地人は最下層の階級とされ、たいへんに安い賃金で働かされていたので、
使用人を何人も雇うのは容易いことでした。
日本でも戦前までは貧富の差が激しく、ちょっとした普通の家でも使用人がいたのです。
私の母の家にも、姉やと婆やがいたそうです。それはそんなに珍しいことではありませんでした。
ですからフレディの家に使用人がいたことは大層なことではないけれど、やはりイギリス政府の役人であるバルサラ家は、ザンジバルでは上層階級であることは間違いなく、フレディもお坊ちゃんだったと考えられます。

ザンジバルには「ターアラブ音楽」という、ザンジバルで生まれた歌謡曲がありました。
アフリカだけではなく、アラブやインド、さらには中南米やヨーロッパのリズムに溢れ、ザンジバルの多種多様な人種・民族の楽器が混じり合い、それぞれの多彩な文化がアラベスクのように織り込まれているという。
フレディが小さな頃に聴いていたターアラブ音楽というものを、聴いてみたいものだと思う。

ザンジバルは多民族、多文化の島であり、お互いに尊重し合っていて、人々は優しい。
気候は熱帯で、一年中夏服で過ごせるし、果物や魚介類が豊富で食べ物に困らない、まさに楽園のような島で育ったということは、
フレディの性格にも決定的な影響を与えていると思う。
とくに、ちょうど今日のBSで、岩合光昭の「猫あるき」という番組のザンジバル編を再放送していたのだが、島には猫が沢山いて、島の人たちが猫を可愛がっている。猫も人を恐れない。
この島で育ったことが、フレディが猫好きになったことの原因だと、はっきりわかった。
以前にもこの番組をYouTubeで見たのだが、何とも島の様子が寒村のように寂しく写っている。
でも実際にはストーンタウンは賑やかな町で、今やアフリカで最高のリゾート地なのだという。
こ〜んなに美しい島なのだ! 機会があれば、ぜひ行ってみたい。
ザンジバル

それから、ザンジバルではバナナが豊富。
またインドはバナナの生産量が世界一なのだ。
だからフレディはバナナが好きなのは間違いない。
フレディはきっと寒いロンドンでバナナを食べながら、南の国を思い出していたのだろう。
「アフリカ」と「インド」と「ヨーロッパ」を股にかけた、スケールの大きなフレディは本当にカッコイイと思う。
ちなみに、スイスのモントルーで食べたバナナは、中米のコスタリカ産だった。おいしかった。
日本のバナナは大抵フィリピンか台湾産だから、世界にはもっと色々なバナナがあるんだね。
これは晩年になって、だんだんバナナの木になってきたフレディ。
バナナのフレディ






プロフィール

楽園のペリ

Author:楽園のペリ
1975年、初来日の武道館でクイーンを体験、フレディのファンになる。長らくクイーンのことは忘れていたが、映画を見て思い出し、フレディについて研究するうち、ついにロンドンのガーデンロッジや、モントルーのクイーンスタジオまで行ってきました!

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